仲谷丈吾

 

<プロフィール>
1980年 神岡町生まれ。
高山工業高校電子機械科卒業。
高校卒業後は、東京でシステムエンジニアとして就職。
その後数々の飲食店での経験を経て2005年4月より東京御茶ノ水で独立。
現在は飛騨料理居酒屋「蔵助」オーナー。

(お店HP:http://www.kurasuke.jp、ブログ:http://kurasuke.blog.ocn.ne.jp/blog/

 

 

 

<小・中学校時代はどんな生徒でしたか?>
とにかくActiveでしたね。空手と野球にのめり込んでいました。

 

<高山工業高校を選んだ理由を教えてください。>
硬式野球をしたかったからですね。
野球をするために県外に行きたいとうい思いもあったんですが、ケガをしたこともあって飛騨市内を選択しました。電子機械科を選んだ理由は、完全にフィーリングでしたね。

 

<高校時代はどんなことを考えて過ごしていましたか?悩みや葛藤はありましたか?>
野球と寮生活が全てという生活でした。寮生活は先輩後輩関係も厳しく規則正しい生活を求められます。例えば、ジャージ且つ坊主で生活しなければいけないし、私服で外出をしていて見つかったら生活指導で怒られるとか。それでも不満はありませんでしたね。
それよりも寮生活で受けたカルチャーショックの方が大きかったですね。寮には、金山、下呂、馬瀬村、大垣等から色々な人が来ていて、色々な考えを知ることが出来たことはとても刺激になりました。野球ではあまり成果は出ませんでしたが、悩みや葛藤は特にありませんでしたね。

 

<東京に就職した理由を教えてください。>
とりあえず東京に行って何かしたという思いが強かったので、学校に求人が来ていたシステムエンジニアの仕事を見つけて応募しました。東京に行きたいと思ったのは、寮で色々な人と出会って刺激を受けたことが大きいですね。同期で東京に来たのは僕だけだと思います。

 

<就職後の東京での生活について教えてください。>
最初は小さなシステム会社に入ってシステムエンジニアをしていましたが、1-2年経った頃、ボクシングで有名になろうと思い立って、元世界チャンピオンの内藤選手が所属していたジムに通い始めたんです(笑)。
職種もオペレーター業務をする管理部門に異動させてもらい、プライベートの時間(=ボクシングをする時間)を多く持てるようにしました。
ところが、ボクシングを習い始めて1年ぐらい経った頃、いとこの旦那が東京で美容室を始めたんです。その時、開店のお手伝いにいってお店が完成するまでを体験したら、自分のお店を持ちたい!と強く思ったんですね。でも美容師になるには学校に通う必要があるしなーと考えていた時に、当時流行り始めていて自分も興味があったカフェをやろうと思ったんです。
目指す道が決まったので、すぐにボクシングは辞めました。結局辞めてしまいましたが、ボクシングは他のスポーツより数倍ハードなので、これに耐えられたら他のどんなことでもやれるという自信がついたのは良かったですね。

 

<お店を持ちたいと考えた後のお話を聞かせてください。>
最初はフランス料理のお店で働きました。働きたいと思ったお店に飛び込みで、「無給、皿洗いだけでも良いので働かせてほしい!」と言って雇ってもらいました。最初はシステムエンジニアの仕事を続けながら本当に無給で働き始めて、掃除、皿洗い、接客等、個人経営のお店なので何でもやりました。一通り出来るようになった頃に厨房をやらしてもらえるようになり、システムエンジニアの仕事を辞めてフレンチのお店一本に絞りました。最初はオードブル、デザートから始まり、パスタや賄い等も作らせてもらい、オーナーにも可愛がってもらって順調でした。
それにも関わらず、暫らくしてお店を辞めることにしました。仕事は楽しかったのですが、もっと色々なことをやってみたい、特にお菓子作りをもう少し勉強したいなと思ったからです。その時はまだ20歳でしたからね。

 

お菓子作りはパティスリー藤田というお店で働いて学びました。仕事は朝6時に出勤して夕方6時に終わるため、夜の時間でカフェについて学ぼうと思い、スタ-バックスで午後7-11時のバイトを始めました。

 

また、一通りお菓子作りを学んだ後、パティスリー藤田を辞めて今度は表参道のロータスという当時流行りのカフェで働くことにしました。せっかく東京にいるのだから表参道という人気スポットにある流行りのカフェで勉強したいと思ったからです。その後は、夜7時から朝3時までロータスで働いて、そのままスタ-バックスに直行するという生活を送っていました。肉体的にはきつかったですが、自分がやりたいことが一杯あってそのために頑張っているという思いがあったので、苦にはなりませんでした。将来は不透明でしたが、楽しかったですね。

 

スタ-バックスはトレーニングがしっかりしていて、頑張る人にはアルバイトでも時間帯責任者が出来る制度があります。頑張りが認められて時間帯責任者になる誘いを受けたので、ロータスを辞めて仕事をスタ-バックス一本にしました。店のことは全てやらせてもらえるので面白かったですね。発注、棚替え、売れ筋商品の調査や予算の管理までさせてもらえたので、店を持つために大切なことの多くを学びました。

 

<スタ-バックスで充実した日々を送る中、独立のきっかけは何だったんですか?>
スターバックスで自分のお店の様に色々やらせてもらっていた時は充実していたんですが、新しい社員さんが来たんですね。スタ-バックスの店舗は、社員さんが変わると店の方針が劇的に変わるんです。自分の方針と食い違うことが多かったので、じゃあ独立してやろう!と思ったことがきっかけです。勢いですね(笑)。
最初は地元に帰ってお店を開こうと考えましたが、地元に帰る一週間前に例の美容室に報告しに行ったら、「やるなら東京でしょ!駄目だよ田舎に戻ったら!」と強く言われたんです。それで「はっ」とさせられたんですね。悩んだ結果、東京で挑戦しようと決意しました。

 

<独立に関するお話を聞かせてください。>
まずは何のお店をやるのか決まらないと始まらないので、とにかく色々な人にアドバイスをもらいましたね。スタ-バックスで仲良くなった常連のお客さんにも色々と相談しました。それで健康的で世の中に未だない物はないか考えた結果、食べるスープ、それもフレンチのスープというコンセプトで、カプチーノスープや冷製スープもあって、手軽にコーヒーみたいに飲めるスープ屋さんを始めることにしたんです。仲間を集めたり、お店の場所や内装を決めたり、資金調達をしたりするのは大変でしたが、何とか開店までこぎつけました。2005年の4月でしたね。

 

でもお店が上手くいかなかったんですよ。毎月赤字の状態が1年以上続いて、にっちもさっちもいかない状態になってしまいました。最終的にお店を閉める決断をして、スタッフにも辞める旨を伝えました。

 

<一度閉店を決断された後、再度挑戦されたんですか?>
実は飲食関連の不動産の解約は、半年前通知というシステムだった事を後から知ったんです。つまり、今お店を閉めたとしても、賃料は向こう6か月分払わなければいけないということです、、、、、だったら最後まで諦めずにやってみよう!と仲間と前向きにもう一度頑張ってみることにしたんです。

 

再挑戦を決意してからは、開店時と同様に色々な方にアドバイスをして頂きました。それまでは健康重視のためにお酒を出していなかったのですが、お酒を楽しんでもらえる居酒屋にしました。店の中もカフェから居酒屋風にするため、仲間と自分達で改装し、店名もS&H Soupから神田仲谷に変更しました。
また、お店のメイン料理として肉・魚があった方が良いというアドバイスを頂いたので、飛騨牛を扱い始めたんです。加えて、飛騨の地酒を揃えて、飛騨の赤カブや飛騨料理を提供することにしました。そうしたら、本当に潰れると思っていたんですが、V字回復して経営が安定したんです。一度は出した不動産の解約通知も暫らくして解消することが出来ました。

 

今思うと潰れるのを覚悟した時は本当に辛かったですね。お店に行きたくなかったり、お客さんが怖くなったりして、ひたすら本を読むことで自分を維持していました。
そんな中、飛騨や岐阜県出身のお客さんが来てくれたのはとても励みになりました。定期的に来てくれて応援してくれる方もいらっしゃって、本当に支えになりましたね。

 

お陰様で2010年8月には念願の改装を果たすことが出来ました。席数も増やしてランチサービスも開始し、店名も「蔵助」として再スタートして今に至ります。

 

<お仕事の魅力を教えて下さい。>
飲食の接客は奥が深いですし、人付き合いを含め普段の生活の色々な要素が含まれています。衣食住の中の食であり、お客様の喜びをダイレクトに感じることが出来るのは魅力的ですね。その分大変な部分もありますが、直接お客様と関われることが楽しいです。
また、飛騨料理や岐阜県各地のお酒を提供することで、「東京で一旗揚げるぞ!」と思って飛騨や岐阜県から出てきた方々が繋がる場として、お店を提供出来ている点も嬉しいです。
自分もそうでしたが、東京に出てきた人は何か成し遂げてからじゃないと帰りたくないという思いがあると思いますし、そういう人は地元があったから今の自分があるという感謝の気持ちがある方が多いです。私も恩返ししたいという気持ちからお店主催の岐阜県民イベントを定期的に開催しています。

 

<今後の予定や将来の目標について教えてください。>
今までやってきた事と同じ様にコツコツ、地道に、謙虚に、お店を続けていきたいです。その上で機会があれば新たな挑戦をしたいです。焦らずにこれまで支えて頂いた飛騨・岐阜県のネットワークを大切にしながら進んで行きたいと思います。そしていつか何かしらの形で飛騨・岐阜県に恩返しが出来たらと考えています。

 

<最後に飛騨の若者にメッセージをお願いします。>
偉そうなことは言えませんが、若い頃は皆色々な夢を持つと思います。色々思い描いて、行動に移して壁にぶちあたる。思った様にいかないことの方が多いくらいです。
それでも、一つでも夢や、やりたい事を持って諦めずに続けていれば、少しずつ形になって行きます。何事も諦めずに最後まで頑張って下さい。
また、経験の多い先輩の話は非常に貴重です。きっと皆さんにもアドバイスをしてくれる先輩がいると思います。そういう方々への感謝を忘れずに過ごして欲しいです。
東京に来る機会がある方はぜひ気軽にご来店ください。人生相談はフリーです(笑)。