林賢司

 

<プロフィール>

1984年古川生まれ古川育。古川中学校、吉城高校と進学。

高校卒業後は、富山国際職藝学院環境科造園コース(2年)に通った後、富山県小矢部市の造園会社に就職。
5年間修業の後、平成22年4月に26歳で独立。
23年6月より仕事の拠点を飛騨に移して活動中。

その他にも趣味のスノースクートで2年間サポートライダーとして活動し、DVD、テレビ等のメディアでも活躍。

(紹介Link:http://www.worldcycle.co.jp/item/38130.html)
(会社HP:http://www.niwaueken.com/ )

 

<小・中学校時代はどんな生徒でしたか?>

どんな生徒やったかな。活発、野球、スポーツ大好き。じっとするのが苦手。
美術が好きで、図工が得意で常にALL5でしたね。

小学校は野球部でキャプテンを務めたりしていましたが、中学校ではキャプテンは面倒なので他の人間にやらせていました。
中学校からヘアースタイルをモヒカンにしたり、ちょっと変わっていたので、先生からは目をつけられていましたね。

 

<なぜ吉城高校を選んだのですか?>

近いから笑

 

<なぜ普通科に?>

中学卒業する時には、まだ将来の夢とか何になりたいとか全然わからなかったので、普通科を選びました。
父親が公務員だったということもあり、何となく大学に進学すると思っていたくらいです。

今思うと世界が狭くて、世の中にどんな仕事があるかも知らず、何になれるかわからなかったんでしょうね。勉強ができんかったわけでもないんですけどね。

 

<高校時代はどんなことを考えて過ごしていましたか?悩みや葛藤はありましたか?>

野球部に所属していたんですが、軟式だったので硬式野球がしたかったですね。
後はほとんど何も考えずに過ごしていました。

ただ、音楽は好きでした。音楽から思想の世界に入っていきましたね。
スカ、パンク等が好きなのですが、反社会的なメッセージがあったり、黒人文化が深く関わったり、その影響を大きく受けました。

そのおかげで公務員というオプションは消えました笑。
恋愛もしましたし、特に不満もありませんでしたね。

 

<そんな中で庭師を志すきっかけは何だったんですか?>

高校3年生で進路について考えたとき、将来形に残る仕事がしたいと漠然と考えていました。
アウトドアが好きやったもんで、自然を相手にしたいなと思っていました。

そんなある日、NHK番組で重森三玲の特集を見たんです。彼は絵描きで茶道家、花道家、庭師と複数の顔を持つ芸術家ですが、彼の作品である東福寺の庭に感銘をうけて、これしかない!と思ったのがきっかけです。

 

<なぜ飛騨を出て富山を選んだんですか?>

日本には農業大学で造園学科はありますが、造園を専攻出来る大学はありませんでした。
造園学科では都市計画的な要素が強く違和感もあったんです。
そうではなくもっとアートの要素の強い個人の庭にやりたいという思いが強かったので、調べてみたら、富山に全国唯一の庭師の専門学校を見つけました。
これが東京だったら東京にもいっていたでしょうね。

 

<専門学校での生活について教えてください。>

本当に良い勉強になったし、楽しかったです。
県外から講師がきたり、非公開の庭を見学できたり学ぶことが多かった。同時に飛騨の造園のレベルが低いのを漠然と感じはじめていました。

世の中本当に広くて知らんことが多いなとも思いました。
クラスメートは、半分が脱サラで30代―60代でしたが、逆にそれが良かったです。同世代では知らないことを知っている人から学ぶことも多かったですね。そこでふけました笑

 

<富山で就職した理由を教え下さい。>

京都に行きたかったんですが、雪吊りがしたかったんです。
京都は雪が降りませんが、富山や金沢は雪が降る。
庭師としての地位も確立されています。

特に金沢周辺は文化的に庭にお金をかける土地柄ですし、地元にも近いことから富山の会社に就職し、富山と金沢を中心に働きました。

 

<富山と金沢で仕事を覚えた中、なぜ独立しようと思ったのですか?>

公共事業やゼネコンの下請けをする毎日に職人を感じられませんでした。
本当の職人というのは、一般個人を相手にして、利益を追求する企業ではなく、技術や質を大事にしています。図面まとめて指定された通りに庭を造ることが多く、そこにアートを感じることが出来ませんでした。そこで、自分でやるしかないと決断したんです。

 

<独立のハードル、悩みはありましたか?>

23歳で結婚していたので、独立した時には、嫁さんと子供もいて、生活を考えると不安でした。一方で、庭師としての腕に自信もついていたし、それ以上に職人をやりたかった。

全ての親戚と嫁や嫁の親戚も反対でした。
でも植木家として独立した先輩で、若い人を助けたいという気概のある人が後押ししてくれました。仕事がない時はバイトで使ってくれたりもしました。独立して辛いのは、1から10まで納得して仕事が出来ない時ですね。予算の関係で妥協しないといけないときが辛い。安くしてと値切られるときも辛いですね笑

 

<独立して富山での仕事も軌道にのった中、なぜ飛騨に戻る決断をしたのですか?>

両親が飛騨におるのが一つともう一つは飛騨の造園を発展させたいと思ったからです。
富山の業者に飛騨の人々は雪吊りもしないので、頑張ったほうがいい!と良く言われて、悔しい思いをしたことがたくさんありました。

誰もせんのなら自分でやるしかないと。

 

<飛騨に戻ってきて一番の困難は何ですか?>

飛騨にきてからの困難は、知名度のなさですね。

また、独特の田舎の付き合いがありますし、まるで鎖国しているようです。まだその壁を乗り越えられてはいませんが、それを乗り越えるためにはいい仕事をし続けていくしかないと考えています。

 

<現在の具体的仕事内容と魅力を教えて下さい。>

庭園の管理、剪定、雪吊り等がメインで、庭造りを主にしています。

材料を京都にいって仕入れておろしたりもしています。

魅力は、アートです。地面に絵をかいているようなものです。ハサミ一つで木が変わります。縄一つでも変わります。また、自営業として頑張れば頑張っただけ売上につながるのが面白い。完全系がなく、終わりがないので、楽しいですね。技術が向上するのも身をもって感じます。4月1日から一日も休んでいませんから。

 

<今後の予定や将来の目標について教えてください>

精神面では現状維持です。仕事では、利益は上げなくても良いので、納得のいく仕事をやり続けたいです。値段以上の仕事でも納得するまでやる。仕事が一番の営業だと思っていますから。自分にしか出来ない仕事をどれだけするかだと思います。実際今のお客さんには、僕の仕事をたまたま見てこれは誰の仕事や?といって紹介されたケースが多いです。

あとは飛騨にいながら京都や海外に日本庭園を造るのも夢です。飛騨に住んでいますが視野は日本・世界を意識して行きたいです。

 

 

<最後に飛騨の若者にメッセージをお願いします。>

飛騨市は悲惨な状況で、産業の衰退も激しいです。生まれ育ったところなんやで、死ぬ時もそこで死にたいと思えたらいいんじゃないでしょうか。優秀な人が県外にいってしまいますが、仕事がないのが主な理由です。しかし、甲斐性があれば仕事を作ることだって出来るはずです。そうすれば自分の好きな街で暮らせることが出来ます。

また、社会人になったら学歴は関係ありません。勉強が出来るだけではなく、自分で道を切り開ける人材になって欲しいです。そのためには色々なことに興味を持つと良いと思います。知らないことで損することはたくさんありますが、知っていて損することはありません。自分の進路について悩むことも多いと思いますが、親、兄弟、友達みんなに相談して最後は自分で決めるしかありません。周りに相談出来ない人は、僕にいつでも連絡頂ければと思います。