熊崎惣太

<プロフィール>
1979年 下呂市(旧益田郡萩原町)生まれ。
斐太高校卒業。
高校卒業後は、東京農業大学へ進学。
IT、飲食等の経験を経た後、現在は特定非営利活動法人地球緑化センターにて地方活性化事業に従事。

 

<小・中学校時代はどんな生徒でしたか?>
責任感が強くリーダーシップを取る方でしたね。同級生が10人しかいない小さな小学校でした。他に選択肢もなかったので、少年野球に入ってました。

中学校では野球部がなかったのでバレー部に所属しました。その当時、既に将来大学に入って東京に行きたいという思いがあったので、勉強も頑張っていました。
中学生ぐらいだと反抗期で、校則とか先生とかに逆らうのがカッコいいみたいなところがあると思うんですが、僕はそういう生徒じゃありませんでした。それよりも、先生から指摘されることが大嫌いだったので、やんなきゃいけないことはきちんとやっていました。
今思い返すと、私の実家が古い家なので、物事を責任もってやることを小さい頃から刷り込まれていたんだと思います。家には囲炉裏もありましたし、生まれた頃は薪風呂でした。山から薪を運んできて、祖母が火を起こしていたのを覚えています。牛も飼っていましたし、田んぼ、畑もありましたね。いつの時代かと思うような環境で育ったので、自然と昔ながらの暮らしとか振る舞いが身についたんだと思います。実家は代々林業をやっていて、長男の僕は家を継がなければ行けないという思いも既に持っていましたね。

一方、田舎の生活だけではなくて、都会へ出て色んなものを見せたり体験させてくれる両親だったので、いろいろな価値観が身についたと思います。
田舎だけじゃなくて世の中には面白いものがあるんだと気付き、自然な流れで都会に対する漠然とした憧れを持ったんだと思います。

 

<斐太高校を選んだ理由を教えてください。>
大学に進学したくて、近くの高校の進学率を調べたら斐太高校が高かったので、そこにしました。また、高校ではもっといろんな人と知り合いになりたかったし、とにかく、新しいことをしたり、自分の知らない環境に身をおきたかったのも理由です。予想通り、いろんな才能を持った面白い仲間に恵まれました。

 

<高校時代はどんなことを考えて過ごしていましたか?悩みや葛藤はありましたか?>
高校時代は大学受験のための勉強と野球の二つを頑張っていました。でも実は部活を辞めたくて仕方がなかったんです。
通学が片道1時間以上かかる中、野球部の練習が終わって家に着くのは8時過ぎ。それから、勉強をする日々だったので、両立するのはとても大変でした。あくまでも第一目標は大学進学だったので、このままでは中途半端になってしまうと感じていました。でも途中で辞めるというのは性格上許せないので葛藤していましたね。
そんなある日、辞めることを決めて先生に「辞めたいです。」と伝えたんです。そしたら先生は、「お前はチームに居なきゃならん存在だ。」と止められたんです。先生にそう思ってもらえていたことが嬉しくて有難かったので、踏みとどまりました。今思えば本当に辞めなくて良かったです。辞めずに最後までやり通したことが今の自分の支えになっているし、そのときの仲間とも繋がるっていることができます。

 

<進路について教えてください。>
とにかく東京しか頭になかったので、東京の大学に絞っていました。また、実家が林業をしていたこと、学科の研究内容がやりたいことと合致していたので、東京農業大学の生産環境工学科を目指しました。
3年生で部活が終わった後は、受験勉強に打ち込める環境になりましたから、部活と比べれば勉強はそんなに苦に思いませんでした。クラスのほかの人たちと一緒にがんばっていたので、とても充実していたのを覚えています。その甲斐あって無事に合格できました。

 

<大学生活について教えてください。>
とにかく東京に来れたことが嬉しくて、勉強、バイト、サークル等とにかく何でも楽しんでやろうとしていました。典型的な田舎モンのパターンです(笑)。
学生生活の一番の思い出は、住んでいた近所の飲み屋での時間ですね。大学4年の最初の頃から通い始めたバーで、暗めの照明にレコードがたくさん置いてあるとても良い雰囲気のお店です。集まる人たちも僕よりもずっと大人の人たちばかりでした。フリーランスで音楽やアートの世界で仕事をしている人も多かったので、話を聞くのは刺激的でしたね。学生の立場は自分だけだったのでとても可愛がってもらっていました。時には叱られたり励まされたりしたことが、社会勉強なりました。バイトの給料は全部そこで消えてましたね(笑)。
あとは、沢木耕太郎の「深夜特急」にもろに影響うけて、バックパックを背負ってトルコとかギリシャを1ヶ月旅したことですかね。1泊300円とかのドミトリーとかに泊まって、今思えばよくあんな旅をしなたって感じです。
勉強ももちろん役に立ってますけど、その時々で出会った人たちや学校以外での経験とかが今の人生に大きな影響を与えてたり支えになったりしています。

 

<就職活動について教えてください。>
当時は田舎に帰るつもりはなかったので、何となく3年生の半ばから就職ガイダンスに参加したりしていました。でも、実家が代々自営業でしたし、カッコいいなって思える人にフリーランスの人たちが多かったので、自分にも将来的には独立したいっていう思いがありました。だから、大企業や公務員に就職したいとか思わなかったし、何が何でもどこかに就職しなきゃっていうことも思ってなかったので、周りよりものんびりしていましたね。
とはいっても、社会に出たかったし、専攻が農業だったので農産物を扱う仕事も考えましたが、最終的にはSEとして就職することにしました。当時はITバブルの頃で、今後ますますコンピュータ関連のスキルが必要になると感じて、「仕事しながら勉強してやろう」と思ったんです。決まったのは遅い方で4年生の9月ぐらいでしたね。

 

<就職が決まった後から働くまでの間は何をされていましたか。>
覚えてないです。空白の時間ですね(笑)。
たぶん、卒論に取り組んだり、バイトで稼いだお金で例のお店に飲みに通ったりして過ごしていたんだと思います。

 

<就職後のお話をお聞かせください。>
とにかく、スキルを早く身につけようと日々勉強しましたし、仕事も一生懸命やってました。ただ、SEの仕事は性に合わないことに気づいたんです。なぜかというと、人ではなく、ほとんどPCと向き合っていて、仕事をやっているという実感があまり得られなかったんです。PCはなんのリアクションもしてくれませんから。
200-300人の会社でしたが、当時の自分には「誰のためにその仕事をしているのか。」、「何の役に立っているのか。」が全く実感出来ませんでした。あとは組織のあり方っていうか、仕事の仕方にも疑問に思ったんです。直属の先輩が隣に座っているのに仕事の指示をメールでしたり、朝のあいさつもろくにせず仕事を始めたりするのが、田舎モンの僕にとってはある意味カルチャーショックでした。「こんなドライな仕事ってあるんだ」みたいな。
そのため、就職して1年経ったところでスパッと辞めました。当初1年間は契約社員だったこともあり、2年目に正社員になることを打診されましたが、それも断りました。
今思えば、どんな仕事だってやりがいがあるハズだし、そういう時期を乗り越えなきゃいけないって分かるんですけど、当時の僕にはそれが分かるまで続ける我慢強さがなかったんですね。

辞めた後は、学生時代にオープニングスタッフとしてバイトをしていた鉄板焼きのお店に社員として就職しました。もともと「食」とか「お酒」に興味があったのも理由ですが、学生当時にお店の立ち上げから軌道に乗るまでの経過を見ていたのでそれがとても刺激的だったんです。社員として入ったときもまだその勢いはあって、若いスタッフで試行錯誤しながら、お酒を選んだりメニューを作ったりして、自分たちでお店を盛り上げて育てていくために僕らの力が必要とされていました。そして、それが売り上げとかお客さんのリアクションとかに表れるので、前職ではなかったやりがいを感じていました。また、お店を経営するためのお金や人の使い方などにも関われたことは、独立志向のあった僕には本当に勉強になりました。
そんなふうに昼から夜中の12時まで働いて、お店のメンバーとお疲れビールを飲んだ後、その足で飲みに行くいう毎日で、やりがいを感じられる日々を送っていたのですが、就職して3年経った26歳の時に退社したんです。

 

<充実している中、なぜ辞められたんですか。>
楽しく働いてはいましたが、「俺はどこで何をするべきか」ってずっと模索していたんですね。そんな中、自分の中にある真面目な心というか引きずっていた思いが無視できなくなりました。「長男として実家に帰らなくて良いのか?」、「いつまでも好きなことだけやって楽しんでいていいのか?」と考えるようになっていました。
ずっと地元を離れていると、家や地域の事も分からなくなってしまうという危機感もあり、実家に帰る決断をしました。
盛大な送別会をしてもらい、最高の仲間を得たことに感謝しました。当時は日々充実していたので、辞める決断は本当に辛かったですね。

 

<地元に戻られてからのお話を聞かせてください。>
正直最初は蛻の殻みたいになって「やっぱり田舎つまんないなぁ」なんて思ったときもありましたけど、いつまでも未練たらしくしても何も始まらないので、まずは母親が営んでいた洋菓子店の仕事を手伝いました。お店では洋菓子を作って販売したり、お菓子教室をしたりしていたのですが、もっと外に発信するべきだと思いネットショップを立ち上げました。都会の人にも受け入れられるようにアドバイスをした結果、今では全国から注文が来る様になっています。そこで最初の仕事(SE)の経験が生きましたね。

同時に家業の林業、農業の手伝いを始めました。ずっと受け継がれてきたことを自分もやらなければいけないとの思いからです。
僕は田舎には「お金を稼ぐ仕事」と「暮らしを守る仕事」の二つがあると思っているのですが、僕がまずやり始めたのは後者の方ですね。山を手伝ったり、田んぼや畑をやったりしながら、とにかく子供のころに祖父や親父がやっていたことを自分もできるようにならないと、って思ってました。また、実家が築200年を超える古民家なので、手入れしないとダメなんです。だから外装を塗装したり、モノを整理したり、家の周囲をきれいにしたりしてました。それから地域の行事に参加したり、集落の人と交流を持ったりして、地域の一員として受け入れてもらおうと生活していました。
一方で、お金を稼ぐ仕事は、地元にやりたい仕事が見つからなかったので、やりませんでしたね。たぶん、誰かに頼めばすぐに雇ってくれるところは見つかったと思うんです。でも安易に選んでしまっては、今までやってきたことが全部意味がなくなってしまうと思ってました。

そうこうしているうちに、集落の風景やコミュニティが自分が幼少期に見ていたのと大きく変化していることに気付きました。父親も私が高校に入る頃までは山で仕事をしていましたが、今では別の仕事をしています。海外から安い木材が入ってくるようになって、20年前ぐらいから日本の木が売れなり、林業が成り立たなくなったことが理由です。林業に従事する人がいなくなってしまった結果、人が手を加えることで保たれていた山が今は荒れ放題になっています。
また、山だけでなく、田んぼも荒れていたし、家の周りも手入れがされていない状況を見ることはショックでした。
こういう事は、大学在学中に帰省した時から何となく感じていたのですが、実家で過ごすことではっきり認識してからは、このままではいけないと強く思うようになりました。

 

<その現状に気付いた後は、どのように過ごされたんですか。>
実家のある萩原で働きながら、身近にできることも考えましたが、やっぱり仕事としてこれらの問題に関わりたいと思いました。
その当時は「ロハス」とか「社会起業家」という言葉が言われ始めていて、新しいタイプの働き方や生き方を実践する人たちがどんどん出てきていました。
実際に、都会の人々が田舎を求めたり、田舎でも都会の人に来てもらい地域を元気にしたいというニーズがありましたし、「都会の人が田んぼ、畑をやりたいならいくらでも貸すのに。」という地元の人の声も聞いていました。
だから、田舎の自然や伝統を守ることが仕事として成り立つんじゃないかという予感はありました。でも自分で事業を起こす具体的なアイデアもなく、どうしようかと悩んでいました。

そんなある日たまたまインターネットで現在働いているNPO「地球緑化センタ-」を見つけたんです。このNPOは、都会の若者を地方に派遣して地方活性化に繋げる事業をしていて、見つけた瞬間これだ!と思い応募して再度東京で働くことになりました。

 

<一度地元に戻ってから再度上京するのは珍しいケースだと思います。もう一度上京することにハードルはありましたか。>
両親からは一切反対されませんでした。おそらく、両親は実家にいる僕を見ていて何となく楽しくなさそうで、東京に戻りたいんだろうなと気づいていたんだと思います。でも祖父と祖母は、寂しかったんじゃないかと思います。親戚も長男なのにまた出ていくの?と思っていたと思います。
それでも、当時の私はどうしたら地元が良くなるか、盛り上がるかを具体的に仕事にすることができませんでしたから、東京で新たな経験を積む必要があると思いました。もっと広い視野で考えることが来る環境が欲しかったんです。地元で過ごした1年間も、何度か東京に出向いて環境系のイベントやNPOの活動に参加したりして、アンテナは常に張っていましたから、家族も僕から話を切り出す前に、なんとなく分かっていたように思います。

 

<もう一度東京で働き始めてからのお話、具体的な仕事内容について聞かせてください。>
東京に出てきてからは仕事に没頭していました。もう一回東京でチャレンジ出来る嬉しさが強かったので、最初は給料も安くてボーナスもありませんでしたが、不満は何一つありませんでした。給料が安い分、それ以上の知識や技術をなるべく多く吸収しようと貪欲に何でもやってました。そもそも給料は入ってからしりましたし(笑)。それぐらい何かにチャレンジしたかったんだと思います。

僕が働いているNPO「地球緑化センター」は今年で設立20年目で、NPOの中では歴史が長く、元々は中国における植林活動からスタートしています。20年前の中国は今よりもずっと貧しく自然環境も悪化していましたが、日本はバブルの名残もあり経済的には大きく発展していました。同じアジアの国であるのに大きな歪みが存在する状況について、自然環境という視点から支援したいという思いから地球緑化センターが設立されたました。
かたや日本はというと、ヒト、モノ、カネ、情報が大都市に集中しています。ところが、地方では若い人が流出し、過疎化が進んでいます。そこにも日本と中国の間にあったような歪みがありました。田舎から作られる食糧、水、自然が都会を支えている事実があるのに蔑ろにされている、この歪みを解消して田舎を元気にしたいという思いが、今僕が携わっている地域活性化事業の背景にあります。

具体的に僕は、「緑のふるさと協力隊」という事業に携わっています。これは農山村に興味をもつ若者を、地域活性化をめざす地方自治体に一年間派遣するプログラムです。青年海外協力隊の国内版と言えば分りやすいかもしれません。
受入先となる自治体(行政)との調整や同事業に参加する若者の募集・選定まで行います。これに興味を持ってセミナー等に参加した若者に対して、都会と田舎の格差という社会問題について知ってもらいながら、このプログラムに参加することで「田舎にこそ活躍できる場所がある。」「田舎には若者が自己実現できる場所がたくさんある。」「都会の生活とは違う豊かさがある。」ということを伝えています。

経済的に潤えば地方は活性化する、という理屈だけでは地域は元気になりません。田舎を支えているのはそこに住む人々ですから、その人たちの気持ちを奮い立たせることが出来ないと根本的な解決にはなりません。そのため、田舎にはない視点を持った若者がその地域で活動することは、それだけで住民らにとって刺激となるし、生まれ育ったムラの良さを再確認できることに大きな意味があります。そのまま現地に残る若者もいますし、移住しなくても都会に帰り派遣先の田舎について語ったり、交流を続けたりしています。そういうことも地域活性化のひとつなんです。

写真:中国の貧しい農村の風景

 

<現在のお仕事の魅力について教えてください>
まず一つは、派遣された若者が大きく成長するのを実感することです。縁も所縁もない地域で一年間活動すると本当にたくましくなって帰って来ます。参加した若者から「すてきな人々との出会いが、嬉しかった。」、「人間的に大きく成長できた。」といった声を聞いた時は嬉しいですね。

もうひとつは若者を受け入れる地域の人たちが変化するのを実感する時です。役場の方や地元の住民の方々は最初は若者に対してどう接すればいいのかわからないんです。でもそれが徐々に解けて、そのうち自分の子供や孫のように若者と付き合うようになります。派遣された若者は大学新卒とかで社会経験の浅い人も多いのですが、そういった若者と相対することで受け入れる方々にも変化が見られるようになります。
派遣された若者には日常の相談役として担当の役場職員がつくんですが、人事異動でその担当から外れた職員の方からこんな話を聞きました。
「違う部署に行ったらやりがいが無くてね。確かに、若者と住民との間に立って面倒をみるのは苦労も多かったが、今思うと行政職員として一番地域のために働いている時間だったんだなって。本当に難しい事業だが、すばらしい事業なのでこれからもぜひ続けて欲しい。」
こういったお話を聞けるのは本当に励みになります。

たかだか1年間、若者一人が田舎にいっても大きな変化はありませんが、関わった人たちの心には響いてるんです。心に響くものがあれば、それは次のステージに進むための大きな原動力になるんですから、そのきっかけになっていることが、今の仕事の一番の魅力です。

NPOで働くことの魅力という意味では、自分の裁量がある点ですね。例えば、公務員の仕事も非営利と言えますが、税金を活用するため、納税者にとって平等に利益になるような政策を行う必要がありますし、予算や事業計画を厳しく管理・運営するため、お役所仕事から抜け出せない一面もどうしても出てきます。NPOにはそこまでの縛りはないため、熱意があれば自分のアイデアをカタチにできるステージがたくさんあります。しかも、そうしたステージに出るまでにそれほど時間はかかりません。どのNPOも少ない人数でやっているので、一人ひとりのスタッフが関わる業務も多いですが、その分活躍できる場面も多いということです。そのあたりは田舎や飲食店の仕事に似ていますね。
よく環境系のNPOってカッコいいとか、トレンドな仕事っていうイメージを持ってる人が多いんですが、やっていることは文書の作成、外部との調整など、事務仕事がほとんどです。初めて体験することも多く大変でしたが、それも良い勉強になっています。

写真:日本の美しい茶畑

写真:緑のふるさと協力隊と農家の方々

 

写真:現場でのワンショット

 

<現在のお仕事で大変なことは何ですか?>
NPOという組織体のなかで、いかに収益を上げるかということです。よく「NPOはお金を稼がないんでしょ」なんていわれますが、収益がないと組織はつぶれてしまいます。ちゃんと利益を確保しなければいけないんですが、営利活動ではないことが連携したり支援を受けたりしている理由でもあるので、そのバランスをとってプロジェクトを進めることが難しいところです。

また、派遣される若者にも色々な問題が起きます。派遣先で引きこもってしまう人や、鬱気味になってしまう人もいます。そのような人々も含め若者それぞれが背負ってきた人生を我々が受け止めて最後まで応援しなければなりません。時には本当にこの事業がその人のためになっているのかと考えてしまう時もあります。たとえば国立大学を出た優秀な若者が内定を取り消して、この事業に参加することもたくさんあります。そんな時、その選択が本当にベストかどうか、きっかけを与える立場としては責任の重さを感じます。最終的には本人の選択ですが、割り切れない気持ちは常にあるんです。だからこそ、送り込む側としてはがんばんないといけないし、そんな若者が充実した1年を過ごしているのを見るととても嬉しく感じるんです。

 

<今後の予定や将来の目標について教えてください。>
僕が今の職に就いてから、いろいろとチャレンジさせてもらいましたが、組織で働く以上は、やっぱり自分の思いが100%実現できることはできません。「自分だったらこうするのに」ということは多からずいつも持ち合わせています。
それがとても歯がゆいので、ぜんぜん具体的じゃないけど、まずは今の仕事を続けながら、故郷に貢献するために東京で出来ることにチャレンジしたいと思います。縁あって、同じ思いを持つ飛騨地方の出身の人たちと出会えたので、何かひとつカタチにしようと話しているところです。
そして、将来はもう一度故郷に帰って地元に貢献できる仕事を創りたいと考えています。今の仕事やこれから東京でやろうとしていることは、そのためのトライアルでもあります。外から飛騨に移住して頑張っている人もいるのに、地元で生まれ育った自分が地元のためにならなくていいのかって常に思いますから、将来必ず恩返しが出来るようになりたいですね。

 

<最後に飛騨の若者にメッセージをお願いします。>
僕も、まだ半人前なので偉いことを言えませんが、若いときは、人からどう言われようと自分が「これだ!」と思うことを一生懸命取り組むのが一番じゃないでしょうか。ただし中途半端はダメです。一生懸命にです。そうすれば、いろんな人に心配や迷惑を掛けることがあっても、いつかは認めてくれるような気がしますし、その経験は自分の自信と財産になると思います。

そのときに、本質を捉えることが大事だと思います。東京の大学に行きたいと思ったら、「なぜ大学にいくのか?」「なぜ東京なのか?」となぜを繰り返し掘り下げて、自分の核となっている部分を知るんです。そうすれば、目的も見えてくるし、途中で道を逸れそうになってもまた本来のところへ戻ってこれると思います。僕の場合、浮ついた動機で東京へ行って、何回か転職もしていますが、すべて今に活かされているし、これからの人生にもつながっていくと思っています。何気なくこの「本質」を意識していたんでしょうね。
そして、こんな自分を支えてくれる人や故郷があったからだとも思っています。

だから若いときは自分がやってみたいと思ったことに全力で打ち込んで、それができることへの感謝を忘れなければ、いろんな可能性が広がっていくと思います。若さはどんなにお金を積んでも、二度と手にすることはできません。そんな時間を存分に楽しんで欲しいです。