熊崎潤

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熊崎潤

<プロフィール>

1983年下呂市小坂町生まれ

斐太高校卒業後、南山大学 総合政策学部総合政策学科へ進学。

大学卒業後は、飛騨産業株式会社資材課にて主に木材購買を専門として勤務。

2013年より、飛騨産業株式会社を退職し、NPO法人飛騨小坂200滝にてガイドとして活躍中。

 

<小・中学校時代はどんな生徒でしたか?>

小学校の低学年時は、まだ人間じゃないと言われていたそうです(笑) 当時の通信簿を見返すと、「野生動物のような子で、奇声を上げたり、走り回っていた」と書かれていましたね。

中学校では、部活に没頭していたので、朝練、昼連、居残り練と本当に部活のみの生活でした。陸上部に所属して、高跳びで東海大会まで行きました。個人戦が得意で団体戦は苦手なタイプでした。

 

<斐太高校を選んだ理由を教えてください。>

普通科のある高校を考えた時に益田高校よりも大学に行きやすく、進路の潰しがききそうだと思ったからです。その当時の自分の考えでは、親の思惑ではなく周りの友人の雰囲気で大学に行くことが唯一の選択肢になっていました。そのためこの当時、将来なりたい職業もとくにありませんでした。

 

<どんな高校時代を過ごしていましたか?悩みや葛藤はありましたか?>

陸上は中学の時にやりきった感があったので、続けませんでした。棒高跳びでは身長が低いので、勝てないとの結論に至ったのも理由です。ただの負け惜しみですが、東海大会ベスト8に身長勘案後のとび幅で、勝ったからもういいやという感じです(笑)仲のいい電車通学の友人がみんなやってたからという理由で軟式テニス部にはいりましたが、部活には行かずスケボーばっかりやっていました。

悩みや葛藤は、「このままいったら人生どうなるんやろ?」と思っていたことですね。高校3年生になってから周りが受験勉強を頑張りはじめて、自分も焦って生き方を考えていました。

 

<南山大学総合政策学科を選んだ理由について教えてください。>

「何がやりたいか?」と考えた時に、飛騨が狭いので一度外に出たいと思っていて、「どうせ出るなら世界!」と短絡的に思ったんです。そのためには、外国語が必要で、滝を含めた小坂の自然環境と林業が好きだったので、環境に関わった仕事を世界を舞台にしたいとの思いもありました。

その結果、南山大学の総合政策学科が良い選択だと思いました。南山は英語が強いイメージでしたし、当時、環境政策をうたっていたのが、総合政策学科でした。

 

<大学生活について聞かせてください。>

初めての一人暮らしで、田舎から出たこともあり、とても楽しかったです。しかし、なぜか大学で部活に入るというミスを犯してしまいました。軟式テニス部が実は体育会でがっつりしごかれるのを知らずに入ってしまい、最初の2年間は部活のみの生活になってしまいました。

就職活動にも役立つとは聞いていたものの、部活だけでは駄目だと思い、留学制度に挑戦するために部活を辞めました。環境大国のスゥエーデンに留学したくて、TOEFLを受け続けたが、点数が伸びませんでした。受験会場が東京、大阪なのでお金にも限界があり、留学を諦めました。これが人生初の挫折で、ここから人生が下り坂になったと感じています。打たれ弱く、負け慣れていなかったんだと思います。

この挫折により、留学を経て通常4年生の大学を5年間かけて卒業するスケジュールが崩れて、周りにあわせて3年の初めから就活を始めました。しかし、何を思ったか、急遽大学院に行って専門性高めたいと考え、文系なのに信州大学の大学院(森林生態学を先行する研究分野)を3年の夏に受験して、落ちてしまいました。受験者の中で文系は私一人だけで、面接官からも「なんで君が受けにきているの?」と言われる始末でした。世間知らずでしたね。また負けてしまいました。

 

<その後、大学院受験を断念し、就職活動に専念されたのでしょうか。>

そうですね。就活を再開することにはなりましたが、周りとの意識の差があり、就活に身が入りませんでした。というか就職するということ自体が考えられませんでした。そんな中、当時の彼女(現在の妻)との将来も考えたりした結果、海外に出るより、結婚して地元で落ち着いて暮らすのも良いなと思いました。ただ、地元に就職しても世界と関わる仕事をしないと両親への示しがつかないとの思いがあったため、地元企業でも森林系、海外系の仕事を探して見つけたのが飛騨産業でした。

飛騨産業の面接では、自由形式の自己紹介をPower pointで発表することが求められました。事前にプレゼンを準備したのですが、私の前の人がとても良いプレゼンをしたのでPower pointでは勝てないと思い、その場でバク転して「瞬発力で何とかやってみせます!」と言って無事内定をもらいました(笑)

 

<飛騨産業に入ってからのキャリアについてお聞かせ願います。>

入社の際に志望したところが購買部で木材の買い付けをする部署でした。当時輸入材が中心でしたが、国産材の杉も使っていくというポリシーを社長が持っており、国産材と海外材両方扱える点に魅力を感じました。購買部は当時60代の方が一人で担当していた部署ですが、海外営業部等と比べてマイナーなため、志望者が私一人のみでそのまま同部署に採用されました。

それからは、同部の後継者として育てて頂き多くの経験をさせて頂きました。海外出張も中国とアメリカばかりでしたが年6回は行っており、社内でも誰よりも出張していました。同期からもよく羨ましがられました。

 

<充実したキャリアを歩む中、NPO法人飛騨小坂200滝に入られた経緯について教えてもらえますか。>

「小坂の瀧」という私と同い年で昭和58年生まれの本があります。その本で滝を調査をしていた方が、親父の友人だったため、本の写真を小さい頃から見せられて育ちました。そのためか小さい頃から滝を見たいという思いが心の中にありました。潜在的に植え付けられていたんだと思います。

社会人になってもスケボーばっかりやっていましたが、仕事で稼いだお金で沢登りや山登りを始めました。その頃、私が入社した年にNPO法人飛騨小坂200滝が立ち上がったのを知りました。正直「先をこされた!!」と思いましたが、趣味を続けて、実力もつけながらも、同NPOとは距離を置いていました。

しかし、趣味だけではもったいと思い、2011年から同NPOの会員になり、ガイドとしての活動を始めました。飛騨産業で働く傍ら土日にNPO活動を手伝って、ガイドコースを覚えていました。真正直に入口から出口までを遡行する沢登スタイルの山行しか知らなかった自分自身にとって、当時目から鱗だったのは、それらのルートに途中から入ったり出たりする“秘密の道”を年配のガイドさんから教わったことです。その時、初めてガイドさんや先人のすごさや大変さを理解しました。人々に滝を案内できるように有志でコースを整備していることは、この町の財産だと思いました。一方、先輩のガイドさんは高齢な方々ばかりで、「このまま行ったら小坂の滝ガイドは、どうなってしまうんだろう?」と思いながら続けていました。

 

<NPOに実際に飛び込むきっかけは何だったんですか?>

一つは、子供も生まれる予定だったということもあり、家族との時間が取れる仕事をしたいと思っていたことです。飛騨産業で入社7年が過ぎてそれなりのポジションについていましたし、一生この仕事をするという考えもありました。しかし、当時の私には、誰よりも早く出社したいというプライドがあり、朝5時半に出て帰りが9時半という生活で、どうしても労働時間が長くなっていました。

他にも考えるところがありましたが、最後はNPO法人飛騨小坂200滝が存続できなくなることの危機感が決めてとなりました。2013年度までは県の予算が付いていましたが、予算が切れた後も何とか誰かがやっていく必要があるとの危機感です。

「バカや!そんなもんで食っていけるか!」と親類含め多くの方に反対されましたが、決意は揺るぎませんでした。物事を辞めるのは楽ですが、本当に今のガイドさん達がいなくなってしまったら滝ガイド事業が終わってしまいます。

個人的に町全体が負け癖がついているとも感じていました。観光は毎回打ち上げ花火を打ち上げては消えていくような企画が続いており、将来のVisionを掲げて何を続けるのか、捨てるのかを考えるべきだと思っていました。その時、温泉と絡めて小坂が癒しの場所となるには、小坂の滝は絶対に外せないという思いがあり、滝に賭けてみたいと思いました。個人的にも久しぶりにする大勝負です。

 

<現在の仕事内容について教えてください>

ガイドの企画運営、自然・滝ガイド、沢登りガイドを務めています。加えて、営業活動、啓発活動で地元の学校へ講義に行ったり、下呂市内の小学校の御嶽登山ガイド等もしています。街づくり団体とも協力して、トータルで小坂のセールスマンになっているイメージです。この地域に来てくれる方をもっと増やすことがとても大切だと感じているからです。

また、私達がこの町で食べていけなければ次の世代も食べていけないとの意識があります。雇用を確保しないと若者が帰れる場所はありません。「次の世代の人に出来るだけ多くの選択肢を残して行きたい」、「そのためには何でもやれることはやって行く」という思いで取り組んでいます。そして、こういった問題意識は飛騨全体のレベルで持つべきだとも思っています。

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1案内板の前で説明2

 

<現在の仕事の魅力及び大変なことについて教えてください。>

仕事の魅力は、「自然の中で働くことの心地よさ」を得られることです。自然の恩恵を受けていると感じながら働けるので、前職と比べてより人間らしい生活が出来ています。日が昇り沈むまでしか仕事は出来ません。もちろん事務仕事などデスクワークで日没前後の業務はありますが、季節の流れとともに仕事ができています。その点では贅沢すぎて世間の人に申し訳ないぐらいです。

大変な面は、事業としてはまだ成り立たっていない現状を変えていく必要がある点です。社会保障もしっかりしていませんし、少し前まで労災もありませんでした。明日の給料も出ないかもしれず、災害や天候の影響次第では、自分とお客さまの命を落とす可能性もあります。そう考えると大きなリスクを抱えながら仕事をしていると実感します。

そんな大変な仕事でも、家族がいるから頑張れると感じています。今の仕事に就いていることによる家族に対しての犠牲もありますし、この仕事を続けられているのは妻の理解のお蔭です。私の最大のスポンサーです。

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<今後の予定や将来の目標について教えてください。>

愚直にやれる事をやり続けることにつきます。具体的には、事業として成り立つようにするために、滝めぐり+αで何をやるのか考えることが急務です。それはレストランかもしれませんし、宿かもしれませんが、全国の様々な事例を参考にしながら今後具体化していきたいと考えています。

 

<最後に飛騨の若者にメッセージをお願いします。>

飛騨にしか住んだことのない人には、一度飛騨を出て欲しいと思います。一度故郷を出ることで故郷の良さが分かった自分としては、将来飛騨に戻って来て欲しいという意味を込めたメッセージです。

次に既に飛騨の外に出ている人には、戻って来て欲しいとは言えませんが、一時的でも帰ってきた時には、できる限り多くの地元の人の声を聞いて欲しいです。地元を知って誇りを持って欲しいですし、外では地元の宣伝塔になって欲しいと思います。もちろん、その中から帰って来る決断をする人が出てくれば、大歓迎です。飛騨の外の人から「こんなに面白い、すごいことが飛騨でも出来るんだ」と思われるようなことに、一緒に取組んで行けたらと思います。