関口祐太

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                                                                                                                                                                         関口祐太

<プロフィール>

1982年飛騨市生まれ

吉城高校普通科卒業

高校卒業後は名古屋商科大学へ進学

2005年に家業の有限会社関口教材店に就職。現在家業と並行して2010年より「飛騨の宝を発掘し発信します」をコンセプトに活動する事業「飛騨古川 来度」を設立して活動中。

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<小・中学校時代はどんな生徒でしたか?>

小学校時代は図工が好きな子供でした。実家が教材店ということもあり、粘土や画用紙とか勝手にもってきて遊んでいて好きになった感じです。郵便貯金箱作りでは、表彰状を貰って凄く嬉しかった記憶があります。友達と外で遊ぶのも大好きでした。

 キャラ的にはしっかりしたタイプでも、引っ張って行くタイプでもありませんでした。背が高くて痩せていたので、ゴボウセキきゅうりと言われていたぐらいです(笑)

中学校では、普段の生活はとにかくルーズで、遅刻したり、忘れ物をして怒られて、廊下に立たされたりする生徒でした。スキー部に入ってからスポーツが好きになりましたが、スキーは上達せずにずっと下手くそでした。当時はどうすれば上手くなれるか、目標たどりつくまでの方法が正確に分からなかったんだと思います。

それまで楽しくフワッと過ごしていた人生で、中学1年の一時期、急に部活仲間にいじられ出したことがありました。イラッとしても強く言えるタイプではなかったので飲み込んで何も言わない日々が続きました。でもある時いじられるのが我慢出来なくなって、帰り道思い切って「それ以上やったら友達やめるでな!」ってある部活仲間に対して怒ったんです。そうしたら次の日その仲間が謝ってきたんです。「そんな嫌やとは思わんかった。ごめんな。」って

それ以来、人に対してはっきり意見を言うことが徐々に出来るようになりました。あと、いじられた時に、怒ったリアクションをすると周りが笑うことがありました。あえて怒ることでいじられるのを回避して笑いをとれるようになりました(笑)。人を笑わせることの楽しさに気付けたのもこの時です。今思うとこの出来事があった時くらいから人との関わり方が少しずつ変わって行きました。

また大人になってそのことを友人に覚えているか聞くと、全然覚えていませんでした。自分では思っていなくても、想像以上に相手を傷つけてしまうことがある。思いやることの大切さを改めて感じました。

勉強は全くしてなかったんですが、3年の途中からは頑張って勉強しました。3年の進路相談で当時の担任の●●●ボ先生に、「吉城か工業にしたい」と話をしたら、かぶせ気味に「こんな偏差値で吉城は無理やろ!おめーにいけるわけねーろ!」って言われて、カチーンときたのがきっかけでした。今思うと、その担任の先生は、私が勉強を始めたことをクラスの皆の前で褒めてくれたり、上手くフォローしてやる気を持続させてくれていた気がします。当時は気が付きませんでしたが、今ではすごく感謝しています。

 

<吉城高校普通科を選んだ理由を教えてください。>

家から近い、親も吉城の受験に賛成してくれたなどありますが、ほぼ前述の担任の先生の言葉で決まりました。自分が普通に行けるところの一個上に目標を置いた感じです。

 

<どんな高校時代を過ごしていましたか?悩みや葛藤はありましたか?>

とにかく楽しい思いでばかりでした。友達と一緒に過ごす時間が本当に楽しかったです。大きな声では言えませんが、授業を抜け出して遊びにいったり、朝まで麻雀やってそのまま朝からもう半チャンしてから学校行ったりしていました(笑)。酒を飲んで停学になって親を泣かせてしまったこともありました。でも悪いことばかりしていたわけではなく、高校に入ってからも続けていたスキー部も楽しかったです。

悩みは、本当に自分のやりたいことは何なのかわからないというのがありました。

私は、小さい頃、とにかく祖父が大好きでした。祖父が学校教材の商売を60年ぐらい前に創業したんですが、祖父の仕事にいつも連れていってもらっていました。配達の際に助手席でよく待っていたものです。それでいつも頭のどこかの片隅に家業を継ぐということがありました。

ただやりたい!というまでではなかったですね。

3年生になって、親に進路を相談した時、「大学に行きたければいけばいい。行きたくなければ、行かなくてもいい。好きなようにすればよい。」と言われました。家業を継げとは一度も言われたことはありませんでした。親が行かしてくれるなら行こうということで、名古屋商科大学に入学しました。お金の面のことを言わず、沢山の貴重な経験をさせてくれた親にはすごく感謝しています。

 

<名古屋商科大学を選んだ理由について教えてください。>

名古屋商科大学を選んだ理由は、商売の勉強が出来る大学に行きたいと思ったからです。家業の事がどこか頭の中にあったことが大きな理由です。当時の私は本気で勉強する気になれず、最初から国立大学は考えていませんでした。どこか中途半端な感じでした。そのため、当時の自分の実力で入れる大学で商売の勉強ができることを踏まえ、名古屋商科大学に進学することにしました。

 

<大学に入学してからの生活についてお聞かせてください。>

FreeStyleSkiingClubに入って、とにかく楽しい時間を過ごしていました。サークルには、大学や短大から今まで出会ったことのないようなタイプの人間がたくさんいて沢山の刺激を受けました。冬は合宿をしたり、春や夏にはトランポリンでエアーの練習やインラインスケートをしたりしていました。

サークルでは4年生の時に部長になり、50人くらいをまとめる経験させてもらいました。進んで人前に出る事がなかった昔の自分からは想像できないことでしたが、人から選んでもらえるほど、人とのコミュ二ケーションが昔に比べてできるようになっていました。この経験から人と関わることのコツや集団について学びました。年間行事の企画運営や人間関係のトラブルを解決したりする内に、人と関わることがなんとなく上手く出来るようになり、好きになっていきました。

学業についても、高校までの自分とは正反対で、本気で取り組みました。大学院まで進まれた勉強のできる先輩にサークルで出会って影響を受けたことがきっかけでした。最初の3年間で卒業に必要な単位はほぼ全て取得していました。

またアルバイトに沢山の時間を費やしました。料理が好きだったので、個人経営のレストランと大型焼肉店でアルバイトを3年間続けました。その時に経験したことはすごく大きく、両店とも、お客様に対してすごく誠実に取り組まれていたので、料理のこと、組織のこと、お客様に対して、会社の仕組みのこと、いろいろと勉強させてもらいました。

ありがたいことにアルバイトのリーダーにして頂いたことで、いちアルバイトとしてではなく、忙しい時にどうしたらみんなの連携をとってうまくお店が回せるかという視点に立てたことでより一層得たものは大きかったと思います。この経験は今の来度の事業に非常に役に立っています。

 

<就職活動についてきかせてください。残りの学生生活については何をされましたか?>

周りが就職活動を始めてもスキーと古川祭りのことしか考えていませんでした(笑)。というのも3年生の時に地元に帰って家業を継ぐことに決めていたからです。

古川祭りは大学2年生の時から毎年参加していましたが、本当に楽しくて地元に帰りたい気持ちが段々強くなっていました。

また、大学三年生の頃、祖父が家業から引退するという変化があり、父親、母親、祖母だけでは、人手が足りない状態なのを感じていました。早く帰って来いとは言われませんでしたが、そのような状況を考え、就職活動は行わず実家に帰る決意を固めました。

一方で、一度外の企業で働き、社会の厳しさや仕事について学びたいとの思いもありました。とても悩みましたが、祖父がから体を弱くしていたこともあり、最後は「じいちゃんが喜んでくれる!」との思いから卒業後すぐに実家に帰ることに決めました。

残りの学生生活は自分の好きなことに時間を使い、冬は志賀高原でスキーインストラクターとして働いていました。ここでも人にスキーを教える中で、得たことはすごくありました。

 

<家業の関口教材店に就職してからのお話を聞かせて頂けますか?>

 

主な仕事内容は、学校教材や備品を、保育園、小学校、中学校、高校に販売することです。具体的には、テスト用紙、計算ドリル、アサガオの鉢、書道セット、彫刻刀セット等多義にわたります。

入社してすぐは、保育園の担当から始めました。担当地域は、飛騨市、高山市全域です。配達する商品は、園帽子、園児服、名札、靴などに限らず、テーブル、椅子、棚、鉄棒、滑り台等の室外遊具の設置工事なども行います。

最初は注文を頂いてから商品を配送するとともに、新商品をチラシ等で紹介していたのですが、他何をすれば良いのか全然わかりませんでした。お客様と何を話したら良いかも分からず、機械的に仕事をこなしている状態でした。いきなり社会に放り出されたため、自分の働き方が良いのか悪いのかわからないまま悩み続けてた状態でした。当時は解決策が見つからず、仕事を途中でサボったこともありました。

そんな中、社会人2年目に一人の先生と出会ったことで、仕事に対する思いが大きく変わりました。その先生は、私が配達に行くと、「あんたちょっときねーよ!コーヒー飲んでいきねーよ!」、「今度こんな商品欲しいんやけど、どんなのがいいやろ?」という感じでとにかく、話しかけて可愛がってくれて、色んな形で沢山の仕事のチャンスをく

 

れました。小さな商品から、園庭の遊具設置工事、改修工事までいろいろとやらせて頂きました。

営業としてまだまだ実績のない私に任せて頂けたのは、本当に嬉しかったですし、私の中では大きな意味があったできごとでした。この先生との出会ってからは、「もっと先生に喜んでもらいたい」、「どうしたら喜んでくれるんやろう?」、「ミスをしたくない」と常に考えるようになりました。

この経験は現在の仕事の姿勢に通じており、「私の仕事を通じて、どうすればお客様に喜んでもらえるか」を常に一番に大切にするようになりました。そういう意味でこの先生の存在がすごく大きかったです。

 仕事1

仕事2

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 <現在の仕事の魅力及び大変な事について教えてください。>

子どもが好きなので、自分はこの子供たちの将来に役立つように仕事をしていこう。と思えることです。そしてそのために関わってみえる先生方のお仕事を最大限サポートできたらと思っています。

大変なことは、世の中の状況がが変化していく中で、常に自分の会社も変化していかなくてはいけません。そのために通常の業務と並行して、仕組みや考え方など常に疑問を持ち、最良の形にしていく作業に日々時間を割かなくてはいけないことです。今まであったものを変えていくというのは大変です。ただ、お客さんの仕事を最大限サポートするという目標に近づいていく行動なのですごくやりがいがあって、良くなったと感じれる時、お客さんに喜んで頂いた時はすごくうれしい瞬間です。

 

<「来度」の活動について聞かせてください。>

来度の活動は、「飛騨の宝を発掘し発信します」をコンセプトに活動している事業です。具体的には、飛騨の素晴らしい食材をピックアップし、食材を生かして、少し手を加え、手にとって頂きやすい形にし、イベントで実際に食べて頂く機会を作ります。また、それがどこでどうやったら購入できるのかまでを口で直接お伝えしたり、パンフレットなどの情報をお渡しします。そうする事で、生産者、販売店、消費者の繋がりがより強くなり、「飛騨の宝」の知名度が上がることを目的としています。

来度の名前は、「お客様に度々来ていただきたい」という願いから来ています。

来度の活動の始まりは5年前に遡ります。最初はスキー部の先輩とただ楽しんで少し利益が出れば良いという感覚でイベントで食品を販売していましたが、この活動をしていたら、周りから「関口は仕事辞めて、やし(テキ屋)をやっとるんか?」と言われはじめたんです。

それが嫌で先輩に「このまま続けるならもうやりたくないです。」と言って話し合った結果、どうせやるなら「人の役に立つことをして喜んでもらおう」、「自分達の地元に貢献しよう」という結論になりました。

そして、コンセプトの「飛騨の宝を発掘し発信します」が固まり、正式に先輩と一緒に「来度」という事業を始めました。

まず最初にピックアップしたのは、下呂市で生産されている「飛騨なっとく豚」(納豆喰豚)です。イベントで出す焼きそばになっとく豚を使って食材をアピールする活やきそばさくせいふうけい動を始めました。

やきそばなっとくぶた看板2  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ライドやきそば写真アップでみせ

 

 

 

 

 

 

 その翌年のシーズンには、地元の先輩(大久保製菓舗)の協力を得て、大久保製菓舗プロデュースという形で国府の飛騨桃を使った新商品「飛騨桃かき氷」を発案して商品化しました。

ライド表紙もも表紙 ライド表紙もも2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、飛騨産のトマトを使ったデザート「飛騨トマトジュレ」という新商品も作りました。

鶏ちゃんを広めるために鶏ちゃん合衆国という組織に加盟させてもらい、鶏ちゃん焼そばという商品も開発しました。

現在はこの4商品で事業を進めています。

飛騨りんご宣伝 飛騨りんご宣伝作成風景

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 説明けいちゃんライド表紙けいちゃん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 <「来度」を通した地域活性化活動の魅力及び大変な事について教えてください。>

人に感謝されたり、喜んでもらえることに尽きると思います。2人で始めた事業も現在はメンバーが8人に増えましたが、なにより自分達自身がこの活動を楽しんでいます。

「飛騨の素材をピックアップし、手にとって頂きやすい形にし、イベントで実際に食べて頂く機会を作り、それがどこでどうやったら購入できるのかまでいろいろな情報をお渡しする」ということは、とても地道な活動ですが、生産者、販売店、消費者の方々の感謝や喜びの声を頂けることがモチベーションになっています。

大変なことは、8人全員が他の仕事をしており、それぞれ時間を見つけてボランティアで事業に参加してくれるメンバーもいるため、休日はなかなかありません (笑)。きちんと休日を作れるようにすることも一つの目標です。

ライド表紙

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<今後の予定や将来の目標について教えてください。>

教材販売では、「あの人がおらんと仕事がうまいこといかんのやさ。」と言って頂けるような、お客様の仕事を最大限サポートできるような存在になりたいです。そのためにもっと今以上にお客様のことをよく知り、何か言って頂いた時の素早い対応と、さりげない気遣い、満足頂ける提案ができるようにして行きたいと思います。

来度としての目標は、生産者、販売者、消費者を繋げる仕組み作りをさらに推し進めて行き、もっと多くの人に喜んでもらいたいということです。そのために、来度が関わった素材の知名度が上がるような色々な方策を考え、実行していきたいと思います。「来度のおかげで知名度が上がった」とはっきり言って頂けるようになりたいです。出来ることは全てやって行きたいと思います。

 

<最後に飛騨の若者にメッセージをお願いします。>

自分は、「やりたいことをやる」、「終わりを意識する」、「人を大切にする」、この3つを大事にしています。

やりたいことは簡単には見つかりません。もし見つかればラッキーです。そのために、楽しいとか嬉しいと思うこと、与えてもらった大変なこと、バカみたいと思うことでも真剣に取り組んでみるということが必要だと思います。本当にやりたいことや、本当にうれしいと思うことはその中にあることが今の所ほとんどです。

また、社会人になるとお葬式に出る機会がだんだんと増えていきます。

身近な人たちが亡くなる事に直面します。すごく悲しいですが、亡くなった本人が一番悔しい思いだったろうと思うことがあります。明日自分は生きていないかもしれない。

いつか必ずそう思う日は来ます。急に来るかもしれません。

本当にやりたいことが見つかっていると、死ぬことでやりたいことが実現しないかもしれないと思うようになってきました。自分はそのことで、どうしたらやりたいことが実現できるかという手段を真剣に考えられるようになりました。自分の人生の終わりを意識することは大事だと思います。

人を大切にすること。世の中には人と場所しかないので、ずっと関わっていきます。どんな人とでも楽しく過ごせると人生が楽しくなる可能性はすごく高くなります。そして自分がいろいろな経験が出来たのも周りの方のおかげです。大切にしないといけないと思います。自分もまだまだ足りないところがありますが、もしかするとこれが一番重要かなと思います。

人間は生まれて、そしていずれ死んでしまいます。それを自分はどう過ごすかだけです。

それは大人になれば自分で決められます。自分は自分の思う家に住んで、好きな車に乗って、ありがとうと言われ、自分の周りがみんな幸せで、ニコニコしながら、キャンプをして大切な家族や仲間と犬と過ごしたいと思っています。そしてそこでは次の楽しい計画をしたり(笑)。

これを実現するために、本当に人に喜ばれる仕事をする。自分の子供にお父さんと同じ仕事がしたい!と思ってもらえる仕事にしたい。そういうことにまとまっています。何もなければ何もないで終わって行く人生、どうせ過ごすなら、やりたいことを見つけ、目標と手段を考えて過ごすと、苦しいですが、楽しいこともあり、充実してると言える人生になると思います。

僕自身、どう生きたいというのはなかなか見つかりませんでしたが、素直な気持ちを持って、少しやりたいことが見つかったらとにかく真剣にやってみる。自分はこの姿勢で本当にやりたいもの、やりたいことを見つけてこれたかなと思います。