袈裟丸祐介

  <プロフィール>

飛騨市出身

吉城高校理数科卒業

高校卒業後は南山大学英米学科へ進学

2011年6月にピアノロックバンド「farafared(フェアファラッド)」のボーカルとしてインディーズデビュー

現在はソロアーティスト「袈裟丸祐介」としても活動中。

袈裟丸祐介 Official Web Site http://www.kesamaruyusuke.com/

farefarad Official Web Site  http://farefarad.com/

 

<小・中学校時代はどんな生徒でしたか?>

一言で言うと優等生気取りでした(笑)目立つことが好きで、授業でも沢山挙手して発表するような子でした。学級委員や委員会長にも積極的に取り組んでいました。

 

<吉城高校理数科を選んだ理由を教えてください。>

大学進学が頭にあったので進学に強い吉城高校の理数科を選びました。優等生気取りのおかげか、内申点が良かったので推薦で合格出来ました。斐太高校は、通学時のバスに醉いそうだったので諦めました。

 

<どんな高校時代を過ごしていましたか?悩みや葛藤はありましたか?>

正直、高校時代は楽しかった思い出があまりないです。理数科は、普通科に比べて閉鎖的で勉強量も多くてとても大変でしたし、友達もあまり増えた記憶がないです。唯一高校生らしく熱くなったのは、3年生の時に柏葉祭(文化祭)のオープニングアクト(文化祭の開祭式で毎年理数科が演じる劇)で準主役を演じた時です。終わった後に皆で抱き合って盛り上がったのを覚えています。

 

<音楽を始めたきっかけはなんだったんですか?高校時代に音楽はされていましたか?>

父親が趣味でやっていたピアノを見よう見まねで弾くうちに、物心ついた時にはピアノを弾くことが当たり前になっていました。

本格的に作曲をするようになったのは、高校生の時に幼馴染の家で、なんとなくピアノを弾いたのがきっかけでした。その時にもっと色んな人に聞いてもらいたいと思うようになりました。ただ、歌や曲を作っていることを飛騨で言うと馬鹿にされるというイメージがあったので(実際にありましたし)、周囲には口外せず、胸の内に秘めて過ごしていました。

<進路についてはどのように決めましたか?>

「音楽の道に進む!」という強い意志があれば専門学校や音大を選択したと思うのですが、そこまでの意思は僕にはありませんでした。進学クラスを選んだこともあり、四年制の大学を目指すことが自然でした。最初は国立理系の受験をしたのですが、好きな英語の先生が南山大学出身と知り、勢いで受験した結果、両方受かってしまいました。周囲が国立進学を推してくる為とても迷いましたが、大学の立地や専攻科目、雰囲気等を加味し、南山大学を選びました。

 

<大学に入学してからの生活についてお聞かせてください。>

とにかく楽しかったです!知らない街で一人暮らしをすることが!正直ホームシックには一度もなったことないです(笑)それだけ早く飛騨を出たかったんだと思います。

入学当初は、必修科目(英語)をこなすのが大変だったので、わりと真面目に勉強していましたが、大学生活に慣れた頃から、軽音楽のサークルに所属しました。それからは、サークルのメンバーとバンドを組んでライブをしたり、遊びに出かけたりと、充実した日々を過ごしていました。

3年生になると周囲が就職活動をし始めましたが、自分と同じ「音楽への憧れ」を持った仲間と、頑張ろうと約束を交わし、就職活動はしませんでした。ただ、大学まで進学させてもらったからには証だけでも残さねばという思いがあったので、英語教師免許は取得しました。

 

<就職活動をしないことに不安や葛藤はありませんでしたか?残りの学生生活については何をされましたか?>

4年生の春、教育実習の為に2週間飛騨に帰省しました。そして実習を終えた最終日、「卒業しても音楽を続けていきたい」と両親に伝えました。その瞬間までずっと隠し続けた想いです。英語教師を目指して4年間を過ごしたものだと信じていた両親に対する、人生最大の裏切りです。申し訳ないという気持ちもありましたが、働きながら音楽をやると言い、半ば強引に自分の意思を貫いてしまいました。ただ実際音楽活動をするにも、生活していく必要があるので、何か仕事はしないといけないと漠然と考えてはいました。卒業も迫った頃、たまたま友人に教えてもらったインターンシップに応募し、そこで働き始めました。

南山大学の名誉のためにお伝えしたいことは、南山は英語を学ぶには素晴らしい環境が揃っていることです。ネイティブティーチャーによる授業が多く、様々な国からの留学生との交流も盛んな為、自然と英語力がつきます。内気な僕になぜ沢山の友達が出来たのか振り返ると、クラス内で男女問わず名前で呼び合いながら、皆で英語を話す雰囲気を先生が作ってくれたからだと思います。とても国際的な環境でした。1-2年生で英語をみっちり学び、3-4年生では専門性を磨けるプログラムになっていて、交換留学も豊富です。

卒業した友人の中には、英語教師や客室乗務員など英語を使う仕事に就く人だけでなく、銀行やトヨタ系の事業会社に勤める人も多いです。

 

<卒業してからのお話を聞かせて頂けますか?>

インターンシップでお世話になった会社で契約社員として働きながら、バンド活動を行っていました。

当時はギターボーカルを担当していましたが、聴かせるようなレベルでもなかったですし、毎回ライブをこなすのに必死な状態でした。結局バンドは鳴かず飛ばずのまま1年程で解散してしまいました(笑)

(写真:ギターボーカル時代)

 

<その後farefaradを結成されたんですか?>

元々ピアノをやっていたので、今度は一人でピアノの弾き語り始めたんです。その時にピアノを主体としたバンドをやろうという声がかかり、「farefarad」を結成しました。

自主アルバムの制作や主催イベントを企画する傍ら、ドラムセットやアンプを持ち込み、栄の噴水広場でストリートライブを行うようになりました。不特定多数の人に向けて演奏することで、次第に観客が増え始め、手応えを感じるようになりました。

 

(写真:Farefaradのメンバー)

 

<インディーズデビューのきっかけは?>

My spaceに載せた音源を聴いた東京の事務所から声がかかりました。東京にてレコーディングを行い、ミニアルバムを全国リリースすることができました。本当に嬉しかったですね。

名古屋に留まらず関東・関西でのライブも増えましたし、地方のCMとタイアップしたり、雑誌に掲載されたりと、活動の幅が広がっていることを強く感じました。カラオケ配信もされています!

(写真:デビューアルバムジャケットAmazon.com、TOWER RECORDSなど全国のCDショップにて販売中)

  

<その後の活動について教えてください>

もっともっと上を目指そうと思ってはいたのですが、次第にバンド内の不和が生じ始めたんです。結局解消できないまま、2012年6月に活動休止となってしまいました。

不協和音が出始めてからの活動は、正直しんどかったです。それでも聴いてくれるファンの方々がいて、嬉しい言葉を頂ける度に、ファンの方々の為にも頑張ろうと奮起してはいたのですが…本当に残念な結果に終わってしまい申し訳ないです。

落ち込む時期もありましたが、歌をうたい続けたいという思いから「袈裟丸祐介」としてソロ活動を再開しました。バンド時代の明るい曲だけでなく、「ありのままの自分」をモットーに暗い曲も歌っていこうと決めました。

ソロになったことでフットワークが軽くなり、ライブハウス以外にもストリート・カフェ・商業施設等様々な場所でライブ活動を行うようになりました。

ソロシングルとして、2012年7月に「雨あがり」、2012年12月に「I’m fine. Thank you!」を発売し、現在はミニアルバムの発売に向けて製作中です。

(写真:ソロ活動の写真)

 

<音楽活動の魅力について教えてください>

僕は、思っている事や感じている事をうまく人に話すのが苦手です。でも歌を通じて、それが可能になると信じています。歌が自分自身の力になれる。

そしてそれを聴いてくれる人たちがいて、様々なレスポンスを貰える。普段は「その人」にとっての自分は「その他大勢の中の一人」かもしれないけど、音楽を通じて己の存在意義を見出せる。一瞬でも誰かの特別な存在になれる。そこに音楽の魅力を感じます。

 

 

<今後の予定や将来の目標について教えてください。>

2013年4月27日にミニアルバム「I’m fine. Thank you!」を発売します!そして発売日当日、名古屋のK.Dハポンというライブハウスでワンマンライブを行います!当面の目標はこのワンマンライブを成功させることです。

また、今年は人との繋がりをもっと広げること、そしてその繋がりを大切にすることという目標もあります。ミュージシャン同士との繋がりもそうですし、お客さんとの繋がりや、飛騨との繋がりを大切にしたいと思っています。僕は正直飛騨があまり好きではありませんでした。閉鎖的な環境で、音楽を馬鹿にされた経験があるからです。でも音楽活動を続けている内に、同級生や飛騨の方々が反応してくれ、応援してくれる人が増えてきました。皆さんが応援してくれるおかげで、自分の出身地を大事にしたいという気持ちになれました。

ちなみにお気づきの方もいると思いますが、苗字の「袈裟丸」は飛騨の地名に由来します。

よく「珍しい名前ですね」と聞かれるので、堂々と「地元の地名です!」と言っていますよ(笑)

(写真:ソロ演奏写真)

<最後に飛騨の若者にメッセージをお願いします。>

皆さんが将来を考える時、やりたいことが途方もなくて誰にも相談できず悩むこともあると思います。

そんな時、無理に周りに伝える必要はないんじゃないかなと僕は思います。その気持ちは胸の内に秘め、もっと広い世界に出ることも良い選択だと思うし、自分がまさにそうでした。飛騨を出ると世界はとても広く、同じ志を持っている人が世の中に大勢いることに気づかされます。きっと思いを共有し合える仲間に出逢うことが出来ると思います。

ただし個人的な経験から、親を悲しませないためにも、ちゃんと話し合って理解してもらうことも大切だということを忘れないでください。僕を反面教師にしてくださって構いません。

また、矛盾するように聞こえるかもしれませんが、飛騨の若者の皆さんには、出来るだけ夢を話せる仲間を持つ努力や、人と繋がって行くことの努力もすごく大切だということを伝えたいです。自分の場合は、ミュージシャンになるという夢を話せる幼馴染が一人いたことが、大きな支えになりました。

飛騨を出てからも、僕は意志が強い方ではないので、色々とアドバイスしてくれたり、応援してくれる人達が周りにいるからこそ、やりたいことに向かって進んで行けるんだと思っています。