結城茜

 

<プロフィール>

1984年生まれ 飛騨市数河出身

斐太高校卒業

高校卒業後は、専修大学文学部英語英米文学科へ進学

大学卒業後は、東京のパレスホテルにて勤務した後、2011年4月からニューヨークに留学中

 

<小・中学校時代はどんな生徒でしたか?>

とにかく性格のきつい子だったと思います。先生にもよく反抗してました。(笑)

特に道徳の授業が嫌いで、親切心のおしつけとか、何が正しいかとか決められるのがすごく嫌だったのを覚えています。一言で言えば、”ひねくれてた”んです。道徳の時、思った事を正直に書いてしまって、いわゆる”熱血教師”から、かわいそうな人を見るような目で見られたのを、今でもはっきりと覚えています。(笑)

思ったことを何でも口に出してましたね。

 

<斐太高校を選んだ理由を教えてください。>

成績がわりと良かったので、親と先生が斐太高校に行くという流れをいつのまにか作っていたって感じです。

 

<高校時代はどんなことを考えて過ごしていましたか?>

一つは、とにかく体育祭を頑張っていました。斐太高校は、例えば黄団になったら三年間黄団のままです。1-3年生の団の幹部(男子の応援団)と総務(女子の応援団)の人は、放課後に集まって色々と準備をします。私は総務として活動していて、めちゃくちゃ楽しかったです。斐太高校では、勉強以外の事(部活、遊び、体育祭、文化祭)を頑張ってる人ほど、勉強の成績が良かったようなイメージがあり、そんなところが好きです。

ちなみに大好きだった先生は、大野Tこと、大野貴司先生です。大野T LOVE!!!です。よく遅刻をして、その理由として「化粧をしていたら時間がおしてまった」などとふざけたことを言って、あきれさせたものです。でもいつも親身に話を聞いてくれて、「お前は見た目と違って、中身はわがままじゃない」と言ってくれたのを今でも忘れません。

大変お世話になりました。

受験の時は、その当時好きだった先輩が通っていた中央大学を受けました。理由はそれだけです(笑)。結局中央大学は落ちたため、滑り止めの専修大学に入学することにしました。

あとは色んな友達と遊んでいた思い出ばかりですね。週3カラオケです。(笑)お陰で歌が上手になりました。

 

<大学に入学してからの生活について聞かせてください。>

人間関係は上手くいっているとは言えませんでしたね。当時の私はなぜか東京の人々には心が開けませんでした。飛騨人依存症という感じでした(笑)

学業については、遊びすぎにより1、2年生の頃は単位がとれず(泣)、その分3年、4年で頑張って、ぎりぎり卒業に必要な単位だけをとって卒業しました。

あまり勉強は頑張らなかったのですが、最後のゼミ(教授の指導の下、専門性の高い授業を少人数で行うもの)には力を入れました。

英語でのプレゼンテーションを学べるJeffゼミというアメリカ人の先生の人気のあるゼミを選びました。ゼミに入るには選考を通らなければいけなくて面接もありましたが、なぜか合格、ラッキーでした。

ゼミの授業は何でも良いので一つトピックを選んで、英語で人々を説得するということを行っていました。このゼミを通して気付いたのは、アメリカ人のスタイルが自分の肌に合うということです。日本人は物事を教える時でも、理由を明確にしないことが多いですが、Jeffの言う事は合理的で、それが将来どんな風に自分に役立つかなど、何かをする意味をしっかりその都度説明してくれるので、私でも納得しながら勉強をする事ができました。こういうやり方なら私は勉強を楽しめるんだと、そのとき思いました。今思えば、Jeffのおかげでアメリカという国に興味がわいたのかもしれません。

一つお伝えしたい事は、これから大学受験を考えている人には、アメリカやイギリスの文学を専門に学びたい場合をのぞいて、英文科はお勧めしないということです。英文科に入っても本当に英語がしゃべれるようにはならないし、仮に英語が出来るようになっても、社会に出た時には、英語に加えて何が出来るのかがもっと大切なんだと、最近になってやっと気づいたからです。英語は他のことを専攻しながらでも勉強できるし、英語がペラペラになりたい人は、アメリカやイギリスに一年交換留学してみるとかの方が効果的だと思います。

 

<就職活動について教えて下さい。>

英語を使いたい、海外に関わることがしたいという思いがあったので、客室乗務員を目指しました。でも当時の私は、客室乗務員になれたらかっこいいし、綺麗で華やで、みんなからすごいと思われたいなどの気持ちがあり、浮ついていたのかもしれません。客室乗務員になるための専門学校に通って外資系航空会社を中心に受けましたが結果は駄目でした。今思うと英語力も全然足りていなかったし、倍率の高い面接を突破するだけの度胸も私にはなかったと思います。

仕方なくあきらめて、ホスピタリティーという部分では同じ分野のホテルで働こうと決め、東京のパレスホテルに就職しました。バレスホテルは東京丸の内にあり、お客様は7割程度が外国人なので、ここで頑張って働いて英語力を伸ばしたらまた航空会社を受けようと思っていました。

 

<ホテルに就職してからのお話を聞かせて頂けますか?>

実際に就職したら予想以上に大変でした。

入社してからは、大卒でもフロントや、レストラン、客室係等に配属されるのですが、私はレストラン配属になりました。ホテルのレストランは朝食、昼食、夕食全てあるので一日24時間以上通して勤務する必要があります。例えば、朝11時に出勤して次の日の14時終わり。休憩時間ももちろんありますし、仮眠室もありますが、上司の晩酌につき合ったりで睡眠時間があまり取れないこともあり、泊まり勤務は体力的・精神的に大変でした。あとレストランは力仕事も意外に多いんです。こんな重い物を女の子に持たせるの?!と泣きそうになってました。

パレスホテルは老舗なので、確固としたその会社のカルチャーとか方針がありました。もちろんそういうのが好きで来館されるお客様もいるんです。ベテランの社員が沢山いるので、お客様も安心して来てくれるんです。それがパレスの良さというか。ただその中で

私は上手く自分を出して行く事ができず、個性がつぶされるような気がして正直苦痛でした。

その時思ったのは、個人個人で喋ったら魅力的なのに仕事中に魅力を感じる人(同期も先輩も)が少なかったということです。「なんでこうなんやろう?」「もったいない」とよく思いました。その時何となく「アメリカだったら個性を生かしたまま働けるんじゃないかな?」と思うようになって、いつかニューヨークで働いてみたいと考えるようになりました。もし向こうでで働いてみてやっぱり違う!と思ったら帰国すれば良いし、日本の方が合っていると分かればそれはそれで良いと思ったんです。納得して働けますから。

そんな中、ちょうどホテルを建て替えることになり、従業員は他のホテルに一時的に移る必要が出てきました。割り増しの退職金がでたので、ラッキー!くらいの勢いで、退職することにしました。

振り返るとホテルで働いて良かったこともあります。ホテルのフロント業務に異動した際、英語の会話力がグンと伸びた事です。やはり、実際しゃべる事が最短の勉強法なんだと改めて思いました。

 

<退職してからニューヨークに行くまでのお話を聞かせてください。ニューヨーク行のハードルはありましたか?>

ハードルは、お金を貯める事と、親の説得ですね。貯金をするために、沢山の飲み会の誘いを断ることですごく気まずい思いをしました。本当は行きたいけど、断らなきゃいけいない。。ノリの悪いやつだと思われてたかもしれません。そういうのがしんどかったですね。家族にはニューヨークに行く一ヶ月前まで言っていなくて、「いくから!」といきなり伝えたのでびっくりされました(笑)。心配だからと反対されたけど、最後は「私の人生やで、、」といって振り切りました。

ホテル退職後まずは、退職金でニューヨークに下見に行きました。その時は一ヶ月半程滞在しましたが、その間に、友達ができその人たちにいろんな事を聞きました。調査ですね。家賃はいくらぐらいか、どこにすんだら良いか、皆どんな風に生活しているのか、ビザってどうやってとるのか、働く事ってできるのか、など本当に色々です。今でもその時に知り合った人たちには今もよく会いますが、彼らがいなければ今のニューヨークでの生活はなかっただろうと思います。街が気に入って、友人もできたのでここに戻ってこようと決めました。

その後日本に戻ってバイトをしてお金を貯めていたんですが、ニューヨークに住んでいる日本人向け掲示板を毎日チェックしてどんな仕事、ルームシェアの物件があるのか見ていました。よく、自分がアメリカで生活しているところをイメージしてましたね。ある友人が昔、「やりたい事のだいたい三分の二をビジョンとして頭ん中でイメージできたら、もう実行に移していい時期だ」と言っていました。妙に納得できたので、言葉とか文章じゃなく、映像としてイメージする事を意識してました。

とにかく、早く行きたいという思いがあったので、まずは学生として渡米することにしました。そして、日本ではビザと語学学校の手配と10日間分のホテルの予約だけをしてスーツケース一つでニューヨークに飛び込みました。やりたいとおもったらすぐ行動、これ鉄則です(笑)。

英語を早くしゃべれるようになるために、ルームシェアの仲介をしている日系企業にアメリカ人のルームメートを紹介してもらって、ニューヨークのUpperWestというエリアに黒人のおばあちゃんと姉ちゃんと一緒に住み始めました。人種が違うと発音が全然違うので最初は全く聞き取れないし、上手くしゃべれませんでした。結局トラブルがあって、三ヶ月程で引っ越しましたが。。結局、後からわかったのは、別に仲介業者に頼って高い仲介料を払わなくても、掲示板等でお金を全くかけず部屋を見つけられるんだ、ということでした。これは、私のリサーチ不足でしたね。(泣)

その時は何よりも他人と一緒に住むという事に慣れる事ができなくてイライラしました。ニューヨークは家賃が高いので一人で住む学生はまずいません。だいたい2、3人でルームシェアするんですが、バスルームが一つしかないので、ゆっくりお風呂も入れないし、日本人女子には欠かせない半身浴なんてもってのほかだし、ユニットバスが基本なので誰かがお風呂にはいってたら、トイレにも行けないんです。そういう、日本にいた時にはなかった不便さに慣れるのが大変でした。

写真: 下見に来た時からお世話になっているバー”Bflat” ここで沢山お酒を飲み、沢山の人と知り合いました。このなかのどこかに私がいます。笑

 

<ニューヨークでの生活について聞かせてください。>

一年目→とにかく多くの人に会う。という目標がありました。

なので最初の一年間はとりあえず多くの場所(特に知らない人に出会える場)に顔を出すよう努めました。パーティーとか友達同士の集まりとか色々です。めんどくさがりやなので、正直行きたくない時もありましたが、色んな人に会ってニューヨークにいる人々がどんな仕事をしているのか、見たり聞いたりしていたら、やりたいことが見つかるんじゃないかなあと考えていました。実際ニューヨークには私が日本では出会わなかったような、俳優とかデザイナーとかミュージシャン系の人が多くて、そういう人の話を聞くことは今までそんなになかったので、刺激になったし、かなり影響されました。

こちらで生活してみると、日本でしていたような個性を隠す努力ではなく、個性を出す努力をしていることに気がつきます。でもまだ個性が足りないからもっと出していかんと!!と焦りを感じるくらいです。

そんな生活の中、日本人の友人に誘われたのがきっかけで、狂言のWorkshopに参加しました。日本人の先生がニューヨーク在住の日本人と外国人に狂言を教えているWorkshopです。最初は特に興味も無なかったんですが、とりあえず参加してみると、驚いたんですけど初日から扇子を持たされて謡わされたんです。最初は恥ずかしくて謡うのも嫌だったんですが、行くうちに楽しくなってきて、弟子になって習うことにしました。狂言をしている時間は集中するので、ヨガみたいに自分がリラックス出来ていることに気付いたんですね。声を出すし動いて汗をかくので体にも良いことがわかりました。狂言の小舞を一曲ずつ練習していて、今では7曲出来るようになりました。

写真: 狂言の先生”勘助さん”とパチリ。去年の夏のお稽古です。

実はこのWorkshopがきっかけで自分の目標も見つけることができました。Workshopでは先生が袴と着物を着ているのですが、ある日100年くらい前の帯を見せてくれたんです。今でも綺麗で素晴らしくて、かっこいいし、一気に着物に魅せられてこれや!と思いました。成人式の時には何にも感じなかったのに、自分が目標を探していたからか、その帯を見た時にひらめいたんです。ニューヨークで着物ビジネスをやりたい!と思いました。すぐに着付け教室に通い始めました。只今着付け&着物のことを勉強中です。

(着付け教室HP: http://www.artegroupinc.com/

写真: 着付け教室多分三日目??長襦袢を着る練習です。NYで着物教室って面白いでしょう。

 

<今後の予定や将来の目標について教えてください。>

ニューヨークで着物のコーディネーター兼スタイリストになることが目標です。コーディネーター兼スタイリストとは、具体的には、ニューヨークの雑誌や広告の撮影でアメリカ人モデルに着物を着せる時、日本から着物を取り寄せて、実際にモデルに着付けをする仕事です。

「なんでニューヨークでやるの?」と良く言われるんですが、私からすると、「ニューヨークでなければ意味がない」と思っています。ニューヨークはファッションの発信地。ここで良い作品を作る事ができれば、結果として世界に着物を広げることもできると信じてます。

伝統的な着方を尊重しつつ、私にしかできない新しい着物のスタイルを世界に見せて、「最高にCoolだ!」と言わせたいです。

写真: タイムズスクエア、すごい人。

 

<最後に飛騨の若者にメッセージをお願いします。>

働いたり生活している中で、息苦しい、とか、自分が輝けていないと感じたら、私は今いる場所を変えることは良いことだと思います。日本人は我慢が美意識としてあるので、その場所に残るのが良いと言われがちですが、そこが違うと感じたら、冷静に考えて試しに場所を変えてみて、それで自分に合う場所が見つかったなら、それはそれでOKなんじゃないですかね。それから、仕事や学校を辞める時は自分を責めたり、罪悪感を感じたりするかもしれませんが、周りの人は自分が心配する程自分のことを思ってくれていないものです。(笑)

周りを気にしすぎることはないと思います。

実は私がニューヨークに来た時は東日本大震災の直後でした。ボランティアに行ったりする人がたくさんいる中で、自分は日本を見捨てるみたいなタイミングで、後ろめたい気持ちもありました。でもその当時の私には自分が決めた事(渡米)以外の事を考えたり、行動する余裕はなかったです。

今年の2月26日にカーネギーホールで開かれる東日本大震災復興のためのチャリティイベントがあります。私はニューヨークに来て縁があって狂言を始めましたが、実はそのチャリティイベントは私が狂言を習っている先生が主催しているため、そこで狂言の公演をすることになりました。その時は何も出来なかったけれど、回り回って当時の思いに行きつくこともあるんだなと思いました。

(チャリティイベントHP: http://www.tokyodaigaku-carnegiehall.com/index.html

飛騨に住んでる若い皆さん、選択肢は沢山あるし、選ぶ権利は常に自分にあるってことをたぶん皆知ってはいると思うんだけど、日本の社会の中にいるとそういう大事な事忘れてしまう事がよくあると思うので、忘れそうになったらhidaiiyoをまた読み返して、思い出してもらえればいいな、と思います。

Good Luck!!!