桂川融己

Profile

 

 

 

 

【プロフィール】

1984年下呂市萩原町生まれ

斐太高校卒業後、兵庫県立神戸商科大学 商経学部 経済学科へ進学

大学卒業後は、日本生命保険相互会社に入社し、金沢や東京本社勤務。

2014年1月よりミャンマーのヤンゴンに移住し、    日本企業の進出支援を行う会社にて勤務。

ヤンゴンからキャリアを発信する“Fron Yangon”というブログも運営(URL: http://melt-myself.com/)。

 

【小中学校はどんな生徒でしたか】

親が健康に産んでくれたおかげで、小中高の12年間皆勤でした。学校が楽しくて毎日通っていました。 思い出されるのは小・中の卒業式。皆勤したのは学年一チビの私と学年一ノッポの2人。登壇前、ステージの前で並ぶと身長差が実に30センチ以上。お辞儀をした直後、会場中に笑いが起こった事が強く記憶に残っています。笑 身体が小さくコンプレックスを抱えていたのですが今となってはいい思い出です。

 

【斐太高校を選んだ理由を教えてください】

当初は「(家から近い)益田高校の経理か商業にいって、税理士になる」と思っていました。そのため推薦入試を狙っていましたが、親から「普通科にしなさい」とアドバイスを受け、推薦は断念。父親が当時、益田高校の先生で「やりにくいから、益高に来るな。」と言われ、斐太高で1学年上の姉からも「斐高に来るな。」と(笑) 結局、進学校である斐太高を選びました。結果的にこの高校を選んで大正解でした。

 

【高校時代はどんなことを考えて過ごされていましたか】

同じ中学からは3人だけと寂しさもありましたが、おかげで小・中とはまったく違う人脈ができ、よく遊び、部活に没頭しました。 思い出深いことは3つ。1つは、学園祭。3年生では劇「バトル・ロワイヤル」をやりました。クラスみんなの力を合わせていいものができ、集客数もかなりのものだったため、強く思い出に残っています。 2つ目は部活動のテニス。中学校でもテニスをしていたので高校でも続けました。同学年に中学時代の地区No.1ペアがいるなど、メンバーにも恵まれ地区大会で団体優勝することができました。また、個人でも中学校ではどうしてもなれなかった地区No.1にもなることができました。 一度ベスト8の手前で負け、不覚にも泣いた事がありました。それだけ思い入れがあったのだと今 思い出して感じるところです。 もう1つは勉強面。まさに自分が「井の中の蛙」であることを知りました。自慢のようになりますが、中学までは何度も学年で1位を取っていましたが、高校ではまったくその気配はなし。かといって、悔しくて勉強したわけではありませんでしたので、ずっとそこそこな成績だったのですが、、、苦笑 特に、2年生で理系を選択し、物理で赤点を取った時には焦りました。もっと英語を勉強しておけばよかった、と海外に出て今更ながら思います。

 

【中学高校時代に悩みや葛藤はあったか?】

あったとは思いますが、特にこれといったものは思い浮かびません。 特に悩むことなく、日々を精一杯楽しんでいたように思います。

あえていえば、背が小さかったことでしょうか。笑

 

【なぜその大学を受験したのか】

高校に入った時点で大学へ行く事が前提でした。 はじめは楽をしようと、指定校推薦も検討しました。具体的には某大学の法学部。しかし、親から反対を受け断念。 国公立大学を中心に考え、地方・関東・関西と場所を中心に考えていました。なぜかあまり東海エリアに進学しようとは考えていませんでした。 理系にいながらも、文系学部に興味があり、それでも数字が好きだったので、経済・経営・商学で迷っていたら、先生から「お前は経済学部がいいんじゃないか?」といわれて「経済学部」に決めました。 最終的に、国公立大学の経済学部。東京・大阪等の都市部近く。得意科目(学力)を考慮し、兵庫県立神戸商科大学商学部経済学科へ後期での滑り込みで入学。数学のおかげでした。 振り返ってみると、大学や学部の選択において、情報収集力が弱かったなぁと思います。大学でも社会人になっても同じですが、広い視野で物事を見えてなかったと思います。

 

【大学に入学してからの生活を教えてください】

学部の仲間、部活の仲間の2つのコミュニティーと時間を共にする事が多かったです。 大学では、高校までの軟式テニスではなく、硬式テニスをやろう、と思い入部するつもりでしたが、体育会系特有の飲み会がイヤで入部するのを辞めました。 入学して半年くらいは、バイトをしつつ学部の仲間と友好を深めていました。 入学してすぐのウェルカムパーティーで出会った学部の仲間。広島、島根、福井、岐阜といったメンバーでした。ふと、思いつき数名でスーツを着て、遅刻して授業に出席したところ、教授に追い出されたのも今となってはいい思い出です(笑)

しかし、どうしてもテニスを続けたく、1回生の秋に軟式テニス部に加入しました。 飲み会の激しさもなく(重要!)先輩・同期・後輩とメンバーにも恵まれました。 加入して半年後には、リーグ戦という大事な大会にも切り込み役として、出場させていただけました。メンバーにも恵まれたおかげで、4年間の大学生活の間で、2度の上位リーグ昇格を果たし、久々の3部返り咲きを果たせました。一番いい頃に所属できたのではないか、と思っています。今も年末年始等に集まったり、イベントをしたり、各人の結婚式に参加したりと卒業後もやりとりが続いています。 常に考えていたのは、働きだしたらお金は貯まっても時間がなくなる。だからこそ、大学時代にしかできないことをしよう、という事でした。 結果的に、軟式テニスを10年以上続ける事ができ、卒業旅行として、高校時代の親友とヨーロッパを3週間バックパックで旅行するなど、いい経験ができました。

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【就職活動はどうでしたか】

自分の中では、中小・ベンチャーに入社し、社長の近くで働かせて頂いた後に独立すると考えていました。そのため、直接社長の話が聞ける会社に積極的に足を運びました。社長の話を40名分くらいは聞きました。結果的にはリクルーターを経由して、ベンチャーとは真逆の国内大手生命保険会社に入社することになったわけですが(苦笑)

 

【保険会社に就職してからのお話を聞かせて下さい】

日本生命保険相互会社に入社し、7年9ヶ月お世話になりました。 3年間は石川県の金沢支社で、その後4年9ヶ月は東京丸の内にある東京本部で、現場の管理職を教育する部署で働かせていただきました。右も左もわからない状況で、当時の上司が厳しくも優しく指導してくれ、おかげで社会人としての基礎が身につきました。

 

【退職してからミャンマーに行くまでのお話しをしてください。】

5年後10年後の自分の生活を見据えたときに、自分のキャリアにおいて海外で働いた経験が自分の武器になること、また、当時働いていた生命保険業界が縮小しているマーケットだと考え、拡大していく可能性があるマーケットで働いたら楽しいのではないかと思っていました。そこで、現在急速に発展しているアジアに絞りました。アジアの中でもミャンマーを選んだ理由は、日本人が少なく、自分の周りでミャンマーに住んでいる人はいなかったためです。現地の情報収集中に現在の会社の社長のブログにて、ヤンゴンでの日本人スタッフ募集を見つけました。この募集は自分のためにあるものだと感じ、すぐに社長にメールを送ったことがきっかけで現在ミャンマーで働いています。

 

【現在、ミャンマーでの生活を教えてください。】

生活面では、日本と違いすべてが揃っていないこと。例えば、断水、ネットが繋がらない、停電がある環境で暮らしています。また、仕事面でも日本のように物事がスムーズに行かないこともあります。

現在の仕事内容はミャンマーに進出してくる日系企業に現地の方を紹介する人材紹介業です。以前の内勤の職場と違って日常的にお客さんと会うことが多いことです。昨年の1月に赴任してきましたが、その一年間で1000枚の名刺がなくなっていました。振り返ると日本では出来なかった経験なのですごいなあと思いました。

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【現在の仕事の大変な事とやりがいについて】

文化の違いや、通訳を介してのコミュニケーションが必要な点は大変です。お互いの母国語ではないため、ニュアンス等そのまま伝わらず、また文化的背景の違いから思った通りに伝わらない事もあります。日本語同士でも勘違いは起こるわけですが、ミャンマーでは元々の前提となる知識や文化の違いもあるため、コミュニケーションの難しさを感じます。言い回しを変えて繰り返し伝えるなど、気をつけています。

やりがいとしては、自分が関わった事でミャンマーにある日系企業が発展していく様子が見えるのはやりがいにつながります。例えば、ニュースで「●●社がミャンマー進出」と見た時に、お手伝いをした会社だったりすると、どこか嬉しさを覚えます。数年後に「我社がなければ、今の在ミャンマー日系企業の活躍はなかった。」といわれるような存在であれるよう、頑張っていきたいと思います。

 

【今後の目標や夢】

ミャンマーに赴任してきて、1年半ほど経ちましたがいつまでミャンマーにいるのかは決まっていません。日本への帰国は、一年後なのか、五年後なのかもわかりません。笑

将来的には自分で独立して何か事業をしたいという目標があります。しかし、何をやりたいか決まっていないので、当面の目標は、今 目の前にあることを一生懸命にやりつつ、自分が将来やりたい事業を探すことです。

現在、ミャンマーにいるのでもしかしたら飛騨とミャンマー、もしくは、アジアを繋げる❛コネクター❜になるのかもしれません。どのような形になるかは分かりませんが、自分がミャンマーにいることを生かして何か事業が出来るようになりたいです。

 

【若者へメッセージ】

一言でいえば「知らない世界を知ってほしい。そのための行動をして欲しい。」

僕の場合は中学校から高校に行ったことが、飛騨の中でも色んな人がいる、優秀な人がいると知ったきっかけになりました。大学に行くと西日本を中心として日本中から集まった様々なメンバーに出会えました。会社に入ると京大・東大といった名前を聞くだけでも恐れ多いような(笑)メンバーが全国から集まっていて多くを学びました。

また、会社を離れて、社外の勉強会に参加すると、そこにはまた知らない世界がありました。社外で知り合った方を通じて、海外で働くという選択肢を具体的に描く機会をもらいました。様々な人との出会いを通じて、ミャンマーに行くという選択をし、今の私があります。知らない世界が山ほどあると分かっていると、自分の思考がもっと広がっていくし、人生をどれだけでも面白く出来ると思います。選択肢は無限大です。

今の時代は、新しいことを気軽にインターネットで調べることが出来ます。また、有名大学での偉人のスピーチやTEDのプレゼンテーション等も通して、世界的に有名な人の考え方等についても知識を得ることが出来ます。昔だと難しかったことが、今は気軽に出来ることになっています。なので、ちょっとでも興味を持ったら行動してみる、そこから、「自分の知らないこと」を「知っていること」に変えていき、自分の可能性を広げていって欲しいと思います。

また、今起きている結果が自分の人生のすべてだと思いがちなのですが、まだまだこの後めちゃくちゃ長い人生が待っています。私は現在ミャンマーにいますが、3年前にはまったく想像もしていませんでした。大学時代の計算では、結婚して子供が3人はいるはずでした。笑 まだまだ人生の途中の途中です。私よりも若い人は、チャレンジ出来る可能性の塊だと思っています。周りからの期待もたくさんあり大変かと思いますが、なるべく早いタイミングで自分の可能性にチャレンジして欲しいです。私も若い皆さんに負けないくらい自分の可能性にチャレンジしていきたいと思います。

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