直井忠

写真:直井忠 エジプトルクソールにて

写真:直井忠 エジプトルクソールにて

<プロフィール>

1985年 高山市生まれ。
斐太高校卒業。
高校卒業後は、高山市役所に就職。
様々な部署や東京派遣を経た後、現在は総務課で日々格闘中。

 
<小・中学校時代はどんな生徒でしたか?>

基本小学校は6年間真冬も短パンでしたね(笑)。 スポーツは卓球、水泳、陸上をやっていました。学級長とかもしたり真面目だったと思います。

中学校は卓球一筋。卓球部では部長を務めて、ダブルスで全日本選手権まで行きました!

 

<斐太高校を選んだ理由を教えてください。>

卓球で県外に行きたいという思いもありましたが、卓球では食べていけないという親の考えもあり断念。卓球以外は明確な目標もなかったので、周りの友達に合して自然と斐太高校を選んでましたね。

 

<高校時代はどんなことを考えて過ごしていましたか?悩みや葛藤はありましたか?>

高校に入ってから、中学の時の真面目なキャラから周りを盛り上げるキャラに変わっていきましたね。卓球部でも色々な企画をして、盛り上げ役として部活の仲間と楽しく過ごしていました。どうしたら仲間と楽しく過ごせるかを考えて、海やキャンプにいったり、合宿を企画していましたね。たぶん中学の友人の私の印象は「真面目」、高校の友達は「楽しい」だと思います。

振り返るととにかく高校3年間は楽しかったですね。色々な考え、思いを持った魅力的な友人に会えたのが本当に良かったです。

悩みや葛藤に関しては、進路がそうでしたね。大学に行きたい思いもありながら、高山市役所に就職したのでその点については非常に悩みました。

 

<悩んだ結果、高山市役所に就職した経緯を教えてください。>

高山市役所で働くことになるきっかけは、親に勧められて高山市役所に応募したことです。でも本当は大学に行きたいと思っていたので、進路に関しては最後の最後まで迷いました。自分の周りに地元就職する人もいませんでしたし、大学への憧れもあったので、受験勉強を続けていました。

でも家族は大学進学に大反対だったんですね。私は長男だったので、将来は飛騨に戻って家を継ぐことを期待されていました。私が元々理系で工学部、機械系の学部を志望してたので、理系就職では飛騨に帰って来れないと両親は考えていました。当時の私にはそういう親の考えは全く理解出来なかったので、地元就職することには納得出来ていませんでした。

結局2003年1月頭に市役所に就職することを決めたんですが、その後も3月末まで受験勉強をして大学試験をしました。後悔しないためにやれることは全てやりたかったし、どこまで出来るか試してみたかったんですね。これこそ本当の記念受験ですね(笑)。

当時は「これになりたい!」という明確なビジョンが無かったので親を説得出来ませんでした。

正直いって今も当時の選択に対し、納得出来ていませんし、今後も完全に納得することは難しいと思っています。それでも過去に拘らず自分が選択した今の状況で出来ることを精一杯やって行こうと前向きに考えています。

 

<市役所に就職した後の歩みについて教えてください。>

一年目は、農林課に配属されました。具体的には有害鳥獣捕獲事業といって、畑を荒らすイノシシや熊対策の仕事から始めました。

その後は、山に関する様々な業務に関わりました。例えば、間伐といって、木々が育っていく中で密集しすぎるのを避けるために間引きする作業について、補助等を行い推進する業務を経験しました。こういった作業が必要になるのは、戦後木材需要が高まった際に、国の拡大造林政策に基づき植林が盛んに行われた後、輸入材が入ってきて木が売れなくなったため、手入れが出来ていない山が増えた事が原因です。間引きをすると太くていい木ができますが、やらないと細い木が増え、地表の草木も育ちません。結果、山が水を蓄える力を失い、土砂崩れに繋がったりして危険に繋がるため、国・県の補助金で手入れをしています。私は普通科卒業なのでこんな仕事あるんや!と衝撃をうけましたね(笑)。

生活面では、高校生のお小遣いは5千ぐらいだったので、社会人として給料をもらい、余裕ができたのはとても嬉かったのを覚えています。でも仕事に対する目的、モチベーションは正直一年目ではわかりませんでした。どうやって生きて行けばいいかも分からず、高山のためとも未だ思えていませんでした。責任感だけで、とにかく目の前にある仕事をこなしているという状態でしたね。実は大学への憧れも捨てきれず早稲田の通信制大学に入ったんですが、働きながら東京に通う必要もあり、時間もなく、途中で辞めてしいました。

この頃は、地元の卓球友達と会ったりして、何をするのでもなく、社会人生活だるいな、しんどいなっていう感じで、、、何をするでもなく過ごした時期でした。周りの友人は大学生でコンパしとるとか色々な話を聞くと、本当に羨ましましかったです。羨ましすぎて持前の行動力で東京までコンパに参加するために行ったこともあります(笑)。

一方で、残った人間ならではの良かったと思えることもありました。地元に残っている人が少ないので、同級生が帰ってくると必ず連絡をくれたんですね。それで高校時代にあまり話したことがない人と仲良くなったりして色々な人たちと関わる機会が増えたのは良かったです。

社会人2年目には市町村合併(平成17年2月)があり、合併後は新しい部署の林勤課に異動しました。林勤課では境界明確化作業等に利用する交付金事務に携わりました。定期的に山を管理してきた祖父母世代と異なり、若い世代はあまり山に入らないため、時間と共に所有地の境界線が分からなくってしまっています。そのため、市民の方々が山に入り境界をチェックしたり、杭を打ったりするのが境界明確化事業です。交付金事業は比較的予算が大きいため、責任が重くやりがいを感じていました。3年目も同課に所属していました。段々と山の理解も深まり、仕事以外にも山に関する知識が増えて行き面白くなってきた頃でしたね。仕事に対する意識が変わって来て、仕事上で色々やりたいこと等が出てきたのもこの頃でした。

4年目では税務課に異動し、固定資産税を2年間担当しました。この仕事では、地方税法という法律に則り、きっちりとミス無くこなすことが大切でした。税務課には20-30代の若手が多くて、様々な尊敬出来る若手と出会えたのが良かったです。合併後で大変でしたが、みんなで乗り切ろう!という一体感がありました。学ぶことも多く、若手の人たちから刺激を受けることが出来、とても充実した日々でした。

そして6年目には荘川支所に転勤になりました。

 

<本庁からの異動ということで大きな変化だったと思います。荘川支所での経験についてお話いただけますか?>

荘川支所までは実家から片道40KMもあり、通勤からしてがらっと変わりましたし、仕事も大きく変わりました。高山市は合併するときに、旧町村の役所を総合支所として一定程度機能を残す方針をとりました。そのため支所では広く浅く幅広い仕事を担当する必要がありました。人数は少ないですが、仕事は本庁と同じぐらい種類があり、税務課でやっていたことを一人でやるみたいな感覚です。自動車税、固定資産税、法人税等のサポート全般、市有財産の管理等もやっていましました。

荘川という地域からは、本庁では学べないこと学びました。荘川は1,400人ぐらいの地域のため、住んでいる人の一人ひとりが地元に根付いていて、繋がりが強いです。地域愛、イベント企画等含め総合的な地域力がとても強く、勉強になりました。合併前に就職したので最初はとまどいましたが、旧高山市よりも小さい地域の独自の考え方を学べること、地域間にある違いを理解出来たことは、自分にとって本当にプラスでした。土日行事にも積極的に参加して色んな人と交流しましたね。

それと同時に、高山青年会議所と高山市が一緒に政策提言をする会合や、市職員が講師になるセミナーに積極的に参加したりして高山市全体の勉強も並行して行っていました。

高山市全体の視点と、旧荘川という視点の両方から多くを学んだことは自分の財産となったと思います。

そんな中、ちょうど荘川支所に来て1年が経つ頃転機が訪れました。高山市による市外や海外への人材長期派遣を強化する取組が始まりました。大学に行きたかった自分としてはまたとないチャンスだったので、すぐに応募して7年目に念願の東京へ行くことになりました。

写真:荘川勤務時代に頂いた荘川桜2世、H24,5

写真:荘川勤務時代に頂いた荘川桜2世、H24,5

 

<東京への長期派遣での経験についてお聞かせ下さい。>

総務省の自治大学校という地方公務員の研修機関に派遣されました。同大学で職員として半年務めた後、生徒として半年間学ばせて頂きました。職員としては通信教育システムの保守管理開発や、地方公共団体向け雑誌「自治フォーラム」の編集のお手伝い等をしていました。また、JICA(独立行政法人国際協力機構)のプログラムで発展途上国の官僚が日本に学びに来るのを、日本の官僚と一緒にサポートする事業のお手伝いもさせて頂きました。アフリカやベトナム出身の官僚と知り合うことができ、彼らの国を知れたのは刺激的でした。主要官庁の人達と知り合って話を聞けたこともとても良かったです。官僚叩きが世間の風潮ですが、官僚の皆さんは国を思う熱い思いを持っており、私の中のイメージも完全に変わりました。荘川、高山、国というそれぞれ違った視点から学べたことは貴重な経験でした。

大学では地方自治法、地方公務員法、憲法、民法等を学びます。ちょうど政権交代があったため、それによりどんな影響があるかを学ぶ授業もありました。大学では都道府県や政令指定都市の課長補佐クラス(平均34歳程度)でとても優秀な人たちが集まるクラスで学ぶことができたので、そういった方々や教授との繋がりができました。論文を書いたり、自分が講師として法律を教える授業があったり、科目毎に試験もありました。自分が憧れていた大学生活が疑似体験できたので、この機会は本当に有難かったです。

私生活では初めての一人暮らしを満喫しました。一年間という期限付きだったので、プライベート、仕事も全てにおいて充実して成長する意気込みで過ごしましたね。東京にいる同級生やその友達、東京で新たに知り合った人達との交流を積極的にしました。寮のある立川のBARでも常連になって、たくさんのお客さんやマスターと仲良くなり色々な話をしました。色々な会にも参加して多くの人と出会うことは本当に刺激になりましたね。

東京は行動力による格差が生まれる社会だと思います。行動力次第で世界はどんどん広がる。でも自分が何もしないと一人になってしまいます。動こうと思うと何かがあり、実際に動くと何かしら反応があるという環境は自分の性に合っていたと思います。一方で、高山やと何もしなくても既に培われた繋がりがあります。そういう違いを感じて見つめ直して、地元の地域力の大切さや魅力も再発見できましたね。

東京での1年間を振り返って感じるのは、高山市の外に出ることで地元に対する思いが強くなったということです。外に出て初めて地元の情報をもっと知りたいと思うようになりしました。また、高山から出てきた友人が、地元に対して熱い思いを持っていることを知ることが出来たのは本当に嬉しかったです。高山に帰りたいけど帰れないとか色々な思いを知れて、市役所で地元のために働ける自分の立場が有難いんだなと思うようになりました。普段は表には出さなくても地元のために何かしたいという思いが強くなりました。

また、長期派遣の最後の休暇には、バックパッカーでエジプトに一人旅に出ました。最初は言葉も通じず怖い思いもしましたが、海外を一人でサバイブしながら、色々な人々と知り合う楽しさも味わいました。地元に帰る前に貴重な体験が出来て良かったですね。

 

<東京への長期派遣から戻ってからは何をされたんですか?>

総務課に配属されて3年目になります。東京で学んだ法律等が直接生かせる部署です。仕事は公務員の人事、給料、休暇制度、職員研修、選挙等とにかく忙しい部署です。仕事量も多く非常に大変ですが、素晴らしいメンバーと働けているので楽しくやりがいのある毎日を送っています。また、高山に戻った翌年の年末年始には姉妹都市であるアメリカのデンバーへ一人旅しました。非常に歓迎していただき高山とデンバーの絆を実感しました。

写真:デンバー国際空港に展示されている屋台のオブジェ

写真:デンバー国際空港に展示されている屋台のオブジェ

 

<現在のお仕事の魅力について教えて下さい。>

民間で働いている方々は、生活していくためにも利益を出さなければいけませんが、私達は税金で働かせて頂いています。そのため、本気で家族、友人、市民の方々がどうしたら幸せになれるかを考えていける仕事だと思います。色々な人のお話を聞くと、お客様のためという気持ちと会社の利益との葛藤が常にあるといいます。

限られた予算の中ではありますが、他人のために自分の利益を考えずに仕事が出来ることは、公務員にしかない大きな魅力だと思います。

私もそうでしたが、社会人1年目でいきなり「市民のために働くぞ!」と思うことは、確かに難しいかもしれません。でも私の場合は、徐々に友人や知り合いが増えてきて、その友人からたとえば出産に係る市の助成制度や、税金のことで相談を受けたりすることで、少しずつ実感するようになってきました。先日も新規に農業をやりたいと考えている友人と一緒に市役所に行ってきました。身近な人から始まって、徐々に市民全体のためという考え方が出来るようになって来た感じですね。

また、高山市は観光都市ということもあり、高山市内の事だけ考えるのではなく、外の視点が必要になります。家具、日本酒を外に売りだす活動のサポートをさせて頂いたり、海外(パリ、香港)に職員を派遣しており、海外から観光誘客に関わることも出来るので、グローバルな視点で仕事に取組めます。高山市を拠点としてグローバルに仕事が出来る職場はそんなに多くありません。地元を拠点にしながら、外の世界も見てみたい人にはとても良い仕事だと思います。

 

<今後の予定や将来の目標について教えてください。>

私個人としては、行動力を大切にして、高山市内、市外含めて、もっと色々な人に出会ってネットワークを広げて、より自分の世界を広げて行きたいです。

仕事では、30代半ばまでに色々な部署を回ってもっと勉強させてもらい、幅を広げたいと考えています。もっといろんな側面から高山市を見てみたいですね。

また、私も20代後半になり、次々と後輩が入ってきました。先輩職員として少しでも後輩の育成にも役立ちたいと考えています。高山市のために働くという志を持ってもらえるように公務員にしかない仕事の楽しさを伝えていけたら良いなと思います。

 

<最後に飛騨の若者にメッセージをお願いします。>

私は、高校生の時には何がやりたいか見つけることは出来なかったので、大学に進学せず地元で就職しました。

最初は大学に行ったらもっと色々出来たのにと考えていた時期もありましたが、就職したからといってやりたいことが出来ないことは無いという事に気づきました。特に20代は自分次第で何でも挑戦出来ると思います。様々な人との出会い、感じたことを行動に移すことを大切にして頑張って欲しいですね。

そして、これから進路を決める人の中には事情があって大学に行けない人もいると思いますが、決して悲観することはないと思います。進学か地元就職かに拘り過ぎることなく、どんな進路を選択しても最後は自分次第で何でも出来るんだと前向きに考えて頑張って欲しいです。

また、高山出身で活躍している方々は私の同世代でもたくさんいます。色々な人の話を聞いて自分の世界を広げて、高山という枠にとらわれることなく、自分の可能性にチャレンジして欲しいです。私は自分がやりたいことを見つけられず、高山という枠の中でしか出会えなかったので、これから進路を考える皆さんにはそうならないようにして欲しいですね。そのためにはこのHIDANETも良いツールになると思います。

写真:高山市出身のグラフィックデザイナー 蒲優祐氏の展示会 同年代で活躍している方の一人

写真:高山市出身のグラフィックデザイナー 蒲優祐氏の展示会 同年代で活躍している方の一人

 

最後になりますが、私は高山市から東京に派遣される機会を得た後、飛騨というキーワードにとても思い入れを持つようになりました。高山市や飛騨市で区切るのではなく、皆さんが様々な経験を経て「飛騨人」であることを誇りに思えるようになれたら素晴らしいと思います。