倉本英樹

                          

 

<プロフィール>

1983年 高山市生まれ。

斐太高校卒業。

高校卒業後は、神戸商科大学(現兵庫県立大学)へ進学し、在学中に南アフリカへ一年間留学。

大学卒業後は総合商社の双日(HP:http://www.sojitz.com/jp/index.html)に就職し、ビジネスシーンで世界を相手に格闘中。2012年10月からは同社ニューヨーク法人駐在。

 

<小・中学校時代はどんな生徒でしたか?>

小学校の頃は個人行動が好きで、一人で遊ぶのが好きでしたね。一人で秘密基地を作って後から友達を連れていくみたいな事をするのが楽しかったのを覚えています。

中学ではとにかく色々なことに興味を持って、何にでも手を出していました。授業中も常にテンションが高く、いたずら好きで先生に怒られることも多かったですし、勉強は学年順位でもいつも真ん中より下でどう見ても出来る方ではありませんでした。教頭先生からは進学先に吉本新喜劇に推薦状書いてあげるから、とか言われてましたし(笑)。

親もほとんど勉強しろとは言わない放任主義 (諦め?) で高校出て働けと言われていたので、結構楽に生きていました。親に無理やり連れて行かれた公文式も3回行って辞めました。

あとは少年野球を小学校からずっと続けましたね。

 

斐太高校を選んだ理由を教えてください。>

中学に入った時から野球する為に高山工業高校にいこうと思っていたんですが、中2、中3の時に隠れて親戚の旅館で泊まり込みのバイトしたのがきっかけで斐太高校に行こうと思いました。

そのバイトがそれまでの人生の何よりも辛かったんですね。毎朝6時半から夜10時半まで働いて一日7千円。そこで初めてお金を稼ぐことの大変さと素晴らしさを体感しました。この時の辛い経験から、将来は大学を出て弁護士や税理士になって、言い換えれば体を使わず頭を使って稼ぐ人間になりたい、と漠然と考えるようになっていったのです。

斐太高校には3年生になってから隠れ猛勉強をして何とかぎりぎり滑り込むことができました。今でも忘れない入試の点数は339点!!これを機に、長男ですが実家のラーメン屋(くぬぎそば)を継ぐことはないな、とも確信しました(笑)

 

<高校時代はどんなことを考えて過ごしていましたか?悩みや葛藤はありましたか?>

今でも覚えているのは高1の最初の学年テストで360人中359位だったことです(笑)。

元々自分はぎりぎりこの高校に入ったという劣等感というか先入観が裏付けられてしまって、弁護士とか税理士等の理想はどこかにいってしまい、もうどこかその辺の適当な大学に入れればいいやと思うようになってしまいました。

そんな中、実は私はMAX(HP:http://www.avexnet.or.jp/max/index.html)という音楽グループが大好きだったんですが、高1の夏に名古屋にコンサートを見に行きました。その時が初めての名古屋で、都会やばい!パルコやばい!将来は絶対ここに住む!!と衝撃を受けた経験があって、成績が359番にも関わらず一日にして名古屋大学志望になりました(適当笑)。

こうして志望大学が決まったのは良かったんですが、勉強に身が入らず成績もあがらないので、高1秋の進路面談で担任の先生に、「名古屋大学は無理やでその辺の名古屋の私立にします」と言ったんです。そうしたら「ばかやろー!何もしてないのにあきらめるな!そんなやつは一生何もできない!勉強してから言え!このチンカス無気力野郎!」と先生にひどく叱られたんですね。その言葉に完全に心を動かされて、その日から部活が終わった後の一日5時間勉強を始めました。その結果、今でも感動を覚えていますが高校2年の春のテストでクラス1位の成績になったんです。

でもその後は野球部を続けながら勉強して、部活、勉学、恋愛とバランスのいい学生生活を送っているかのように見えたのですが、途中でいわゆる燃え尽き症候群みたいな状態になり、名古屋大学もE判定しか取れない日々が続き、野球部を引退した後も自分に厳しくなれなくて、結果として大学受験に失敗してしまいました。

最終的な進路は、国立前期試験も私立も落ちてしまって、後期試験で合格した神戸商科大学(現兵庫県立大学)の経済学部に進学しました。行きたかった名古屋でもなく、勉強したかった法学部でもなく、人生の挫折を味わいました。ただ、親に迷惑もかけたくなかったし、浪人するぐらいならバイトしてお金貯めて一年間海外に行こうと思い、進学を決めました。この辺りから、俺は俺だけの人生を生きようというような考えが、意識の奥底で生まれました。

 

<大学に入学してからの生活について教えてください。>

高校時代は野球と勉強に追われていたので、もっと社会勉強したいと思い、一年生の時からアメリカやオーストラリア等を旅行しました。海外に出て見る広い世界、そこで自分がどんなにちっぽけな存在か感じることが出来たのはとても良い経験及び刺激になりました。

大学1年の後半からは、お金を稼ぐためにバイト先の塾からフランチャンズしてもらい、友人と塾の経営もしていました。当時は多い時で月数十万の収入がありました。その分大学には全く行かずに単位も落としてまくってたんですけどね(笑)。

当時の私はとにかくそのお金で遊びまくり、飲みに行ったり、競馬行ったり、友人と無意味に遠出したり、とにかく自ら社会勉強とか言いながら時間とお金を浪費していました。そんな生活を続けている内にお金だけあっても意味がないと思うようになったんです。「お金だけの人間で終わりたくない」、「世界で活躍したい」と強く思うようになりました。「田舎だけでなく世界と繋がる人生にしたい」との思いは、海外旅行等を通じてずっと感じていましたし、広い世界に挑戦したいと思っていました。

そして、南アフリカに一年間留学することにしたんです。

 

なぜ南アフリカという国を選んだんですか。

アメリカやイギリスに留学するのは今となっては特別なことでないし、もっと違う世界に行って人と違う人材(周りの人とは一線を画している人間)になりたいという強い思いがありました。その国で生活出来たら世界のどこでも生きていけるやろうと思える場所、それが南アフリカだったんです。中東にするか迷ったんですが、南アフリカなら英語も勉強できるし、貧困問題、人種問題、衛生問題、高い犯罪率等世界のあらゆる問題が集まっている地域なので、自分を最大限に成長させるならここしかないなと。

当然家族や周りの友人からは「危ないところにわざわざ行く必要なんてない」と反対されましたが、ハイリスクを取ってハイリターンを得てやると思い決断しました。

 

留学生活についてお話頂けますか。

勢いよく飛び出したものの、現地での生活はとても辛かったです。最初はイスラム教の家にホームステイしてたんですが、文化が全く違うんですね。ラマダーンの時期は断食して皆イライラしているし、家族は毎日5回礼拝するので「俺も空気読んで礼拝した方がいいのか?」とか考えさせられるし、食事にも制限がありました。本当に世界は広いなと実感しましたね。

また、現地には呪術師が存在していて科学を信じていない人たちがたくさんいるんですよ。現地の報道で一番ショックだったのは、呪術師がエイズ患者に対して、「処女と性交渉すれば治る。」と言ったせいで、実際に赤ちゃんがレイプにあい殺された事件があったことです。このレベルの教育が必要な世界があって、日本の常識は海外の常識でないことを思い知ることが出来ました。こういった世界がある事を実感できたことが留学生活で一番為になったと感じています。

あとはボランティア活動にも参加させてもらったりしましたね。ボランティアで気付いた事は、援助する側が一方的に与えている状況になっているということです。アフリカ人には援助してもらうことを当然と思っている人も結構いました。日本の政府系機関であるJICAが現地の学校にパソコンを寄付したものの、使い方が分からず学校に山積みとなっているケースなども多々あると聞きました。この経験から援助する側もされる側もお互い努力して成長するべきだと思うようになりました。そうしないと世界の問題は本当の意味で解決に向かうことはないと実感したからです。

もう一つ実際にあった例を挙げると、JICAがアフリカのある村の幼児死亡率を下げるために薬を配布したケースがあります。結果として死亡率は下がったんですが、その15年後何が起こったと思いますか?その年から急激に人口が増えたにも関わらず、村には元々産業がないから仕事もないんですね。その状態でちょうど村が成り立っていたのに、人口が増えてしまった。その結果、暴動が起こって1990年代にその村は壊滅状態になってまった。援助の全ては否定しませんが、元々成り立っている村の状態を考えずに一方的に援助をすることが間違っていたのは明らかです。こういった例は他にもたくさんあって、現地で色々と見聞した結果、「ビジネスの世界であればしっかり将来を予測しながらお互いに最適な成長戦略を描け、結果としてお互いに最大値の利益を生み出すことが出来るんじゃないか」と思うようになりました。

南アフリカでは素晴らしい出会いもありました。私の知っている斐太高校の先生がたまたまJICAに出向して現地に赴任されており、色々とお世話になりました。一緒にトレーニングをしてキリマンジャロ登頂を達成したのは良い思い出です。当時私はまだ20歳でしたね。

こうして今振り返ってみても、南アフリカでの1年間は本当に勉強になりました。広い世界を見て、語学も含め自分自身の成長に繋げることが出来ました。あの時間があったからこそ、今の自分があると実感しますね。

<南アフリカから帰ってきてからはどう過ごされたんですか。>

とにかくしっかり就職したいと思いました。南アフリカでの経験から、最初は外務省や国連またはNGOで働くことも考えましたが、上述の通り問題を解決出来るのはビジネスだと考えていたため、選択肢から外しました。日本の会社で国際的な仕事が出来るとの観点から、メーカー、商社、金融に絞って就職活動を始めました。

途中で気付いたことは、メーカーはやはり中心に物があるということでした。車が売れても、売った山田さんはすごいなぁ、ではなくて、いい車だもんなぁ、となりますもんね(笑)。金融も内定をもらいましたが、銀行はお金が中心にあり働いている顔が見えないように思えました。

結果、人物本位で仕事を作っていける商社に行きたいという考えにいきつきました。「商社なら自分の名前を世界にとどろかせることが出来るんじゃないか」と僭越ながらイメージしていました。

なぜ双日かというと、社員数も少なく、総合商社の中でも一番若手が活躍できる会社だと思ったからです。元々集団行動が苦手なので、個人戦でやらせてもらえるイメージも良かったですね。入社試験は、アフリカでの経験を基に拙いビジネス理論などを語ったらアピールしたら上手くいきました。

 

<就職が決まった後から働くまでの間は何をされていましたか。>

とにかく楽しく過ごしたかったので、色々とイベントを企画していました。出身大学が小さいこともあり、人脈を広げるために関西商社会を友人と立ち上げて、7商社(三菱、三井、住友、伊藤忠、丸紅、豊田通商、双日)の内定者を集めて飲み会をしたり、内定者と一緒に商社志望の学生向けにセミナーを開催したりしていました。

あとは、会社に入ったら出来ない経験をしたいと思い、日雇いのバイトをしましたね。コンテナーの荷積みや甲子園球場のビール売り、コインロッカーのサビ取り等何でもやっていました。

 

<就職後のお話をお聞かせください。>

入社後は機械部門の交通プロジェクト課に配属されたんですが、本当に想像通りの会社でした。人が少ないので私の上司は13個上の先輩でした。衝撃的だったのは、配属初日に「すぐに出張いけ!」と言われ、配属されて三日目に何も分からないまま神戸出張に放り出されたことですね(笑)。配属初日に新幹線チケットを渡されました。当日神戸に到着すると、いきなりドイツ人とメーカーの会議に参加させられ議事録を書かされました。大変でしたが、先輩の熱心な指導もあり何とか乗り越えられました。

入社から5年間、インフラビジネスに取り組んでいます。具体的には、日本の商品/インフラシステムを海外に売り込むという国家戦略に則って、東南アジアの鉄道プロジェクトを受注するべく日本メーカーや海外メーカーと一緒に入札に参加しています。現地で案件情報を仕入れて、日中韓のパートナーに案件を持ち込んだり、時にはJICAや経産省に打診して円借款(日本政府から発展途上国政府へ、インフラ整備を目的として行われる長期・低金利の資金貸し付ける融資制度のこと。)を提供してもらうこともあります。

これまでに海外出張は50回を超えており、色々な国に行かせてもらいました。勿論学生の時に想像した華やかな仕事ではなく、頭を下げまくってのお詫び出張や、中国人と喧嘩ばかりの滞留債権回収(借金返せ)交渉、ジャングル奥地への現地調査などがメインで、かなり鍛えられました。そういった辛く厳しい経験を経て漸く、欧州やアジアのお客さん/政府関係者に英語でプレゼンテーションを行うなどの思い描いていた通りの国際的な仕事や、ウン十億円の契約を海外の企業/日系企業の間を取り仕切り纏めることができたりと、結果が付いてくるようになりました。

また、PPP(Public Private Partnership。国や地方自治体が提供してきた公共サービスに民間の資金や技術、ノウハウを取り入れて事業を行うこと)の可能性を調査するため、政府及び民間の調査員としてインドネシアやベトナムに派遣されたりもしています。海外、特に東南アジア等の新興国では日本が世界の市場で生き残っていくための熾烈な勝負が常に繰り広げられていますね。 

 

<現在のお仕事の魅力及び大変なことについて教えてください

日本のインフラシステム(僕は鉄道インフラが担当ですが)を如何に輸出できるかは国家戦略に深く関わっており、その元となる国家プロジェクトなどのビジネスを商社が東南アジア等の新興国で創り出しています。その最前線で仕事が出来ているのは本当に楽しいですね。政府も巻き込んだ交渉もあり金額も数百億から数千億と大きいので、とてもダイナミックです。発展途上国と先進国の両方に利益がしっかりと出るようなビジネスを構築し、プロジェクトに関わる関係者みんなが満足出来るような案件が出来た時の達成感は相当のものがあると信じており、その為に毎日邁進する日々です。

一方で、大変なことは、東南アジアでビジネスをしているため、政治体制や法制度がしっかりしていない点です。一つ印象に残っている例として、日中韓の会社でコンソーシアムを組んで入札した案件があります。私は双日から3カ月間韓国の会社に派遣され、膨大な量になる入札書類の作成業務やコンソーシアム内の協定書締結に向けた協議等に当たっていました。韓国人や中国人が約30人いる中で日本人はった1人という状態で、韓国人や中国人に対してこちらの厳しい要求を行う必要等あり、本社と韓国/中国企業との板挟み状態での交渉はかなり大変だったことを覚えています。それでも最後までやりきったことは非常に良い経験でした。しかし、苦労して調整して入札することが出来たにもかかわらず、その国の政権が変わってしまい、新政権からプロジェクトに急遽ストップがかかってしまいました。政権が変わると前政権の事業を否定してしまいビジネスが進まないことは東南アジアでは良くあることですが非常に残念でした。それ以外にも法律の不備、税制の不備等で後から混乱することが多々あり、新興国で仕事をする上でのリスクや難しさを実感している次第です。

 

 

<今後の予定や将来の目標について教えてください。>

私は今年の10月からニューヨーク に駐在が決まっているので、そこで最先端のビジネスを勉強したいと考えています。東南アジアでのビジネスはどちらかと言うと考えるよりも行動力や権力などが仕事の結果を左右することが多いと感じていましたが、先進国では法整備も整っているしある程度決められた市場や線引きもしっかりなされています。今度はそういった先進国でグローバルなビジネス感覚や最先端のビジネス構築能力、そしてひいては世界どこでも通用する能力を身に付けたいと考えています。

また、事業投資に関わりたいとの思いがあります。総合商社という業界は、これまで伝統的にトレーディング(自らのネットワークを生かしてメーカーの海外販売・材料輸入等を仲介)を中心に収益を上げてきましたが、最近では事業投資による安定収益を生み出すことが急務になっています。例えば双日は、豪州ミネルバ炭鉱の株式の96%を保有し、自らの手で直接、炭鉱経営をしています。アメリカでの事業投資で安定収益に寄与することも一つの目標です。

私のビジネスマンとしての最終目標は、世界のどこへ行っても自分でビジネスが出来るようになることです。自分で、というのはそれに伴う市場や製品の知識、語学力、人脈、資金力、案件構築力・・などたくさんの能力が必要になります。私の最終的な目標は鉄道でもインフラでも何でも良いので、政府でも現地のパートナーでも自分が所属する会社でも「これは倉本がやった仕事だ」と胸を張って言える(言われる)事業を創出したいです。そして「自分が作り出した事業(付加価値)」というのを世界に残して死にたいと思っています。

仕事とは別で、60歳でビジネスの世界を引退した後は、高山に家と山を買って毎日酒を飲み、釣りをしたり、牧畜したり、農作物を作ったりしながら暮らしたいという夢を持っています。いや、人生に満足できるのであればもう40歳でも35歳からでもいいですが(笑)。もう既に昔からの友人とはそう約束しています。

<最後に飛騨の若者にメッセージをお願いします。>

私が飛騨にいた頃はテレビや周りの友人、親戚から得る情報がこの世の中の全てで、世の中のことを本当に何にも知りませんでした。冗談抜きで弁護士、医者、先生だけが偉いと思っていたんです。その人たちが世の中のトップの人だと思っていました。でも今の私にとって彼らは最強の社会の中のサポーターであり、実は社会を現場から動かしているのは、サラリーマンであることに気付きました。皆さんには、サラリーマンという職業が実はイメージよりもずっとかっこよくて楽しい職業だということを知って欲しいと思っています。

また、飛騨は都会との情報格差が激しいので、自分達の同学年の人たちと唯一フェアに戦えるのは勉強だと思います。数学の数式が一個解けるようになるのは、自分の日本での順位を上げることだし、もっと言うと世界順位を上げることに繋がります。勉強するために机に張り付く時間は世界レベルで平等だと思います。それを理解して勉強して自分の順位を上げて欲しいです。また今の日本の教育が正しいかどうかという議論もあり私も疑問を投げかけたい点はたくさんありますが、今の日本の教育/競争システムにおいては、成り上がるにはどんな形であれテストで点を取った奴の勝ちなのです。

最後に、飛騨からでも世界に出て戦えるし、日本を引っ張っていくことが出来る(可能性がある)ということを伝えたいです。それは私達の先輩が既に証明していますし、私自身もそう信じています。皆さんには可能性がありまくっていますので、どんどん広い世界に目を向けて、「俺が世界を変えるんや!」ぐらいの大きな野望を抱いてほしいです。周りからアホやと思われようが自ら出来ると信じることは全く恥ずかしいことではないですもんね。

私は結果として大学受験にも失敗していますが、遠回りした結果今があると思っています。まだ大きなことは何も達成出来ていませんが、少しずつなりたい自分に近づけています。皆さんも自分を信じて目の前の事をやり続ければ、色々な壁に拒まれて時間がかかり例え遠回りしたとしても、止まらなければ必ずなりたい自分に近づけるんだ、ということを伝えたいです。また、近づけたという実感を得られれば、また更に頑張れると思います。これは私が昔英語が大嫌い且つ苦手であった為、今でも忘れない中2夏の中間テストで英語が32点だったけども、海外に興味を持って海外で働きたいと思い行動した結果、今はアメリカで仕事をしているという自分の実体験からも言えることですね(笑)。

ですから、皆さんが今部活や勉強等で上手くいっていないと感じていても、「自分はこんなもんなんやな」と自分で自分に枠をはめることだけは絶対にしないでほしいと思います。私の実体験からは、飛騨にはいい意味でも悪い意味でも大人や先生でも視野が狭くなってしまう傾向があり、同様に、既存の枠にはめることが正しいとなってしまう傾向がどうしてもあると思います。周りの大人や親戚からなんと言われようが、変わり者と言われようが、僕は、私は、こう思うし、こうなりたい、と考えていける人になってほしいと思います。そして大人になってからは、飛騨人であることを生涯の誇りとして、世界相手にガンガン攻めていってほしいと思います。